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竹花入

一重切 二重切 尺八 輪無二重切 置筒 釣舟

一重切竹花入銘園城寺 東京国立博物館蔵

竹花入(たけはないれ)は、竹を切って作られた花入で、天正18年(1590)千利休が秀吉の小田原攻に従った折、箱根湯本で伊豆韮山の竹を取り寄せて作ったものを始めとするのが通説となっています。
このとき利休が切ったのが、一重切「園城寺」(おんじょうじ)、「音曲」(おんぎょく)、逆竹寸切「尺八」(しゃくはち)、その他に二重切「夜長」(よなが)も作ったとされ、「尺八」は秀吉に献上し、「音曲」は織部に送り、「園城寺」を少庵への土産にし、「よなが」は自ら使用したらしく『利休百会記』天正19年1月の会に「よなが」の名がみえます。
会記にも『天王寺屋会記』天正18年(1590)7月9日の桑山修理の朝会に「床ニ竹ノ切カケ」が初見されて以降、竹花入が頻繁に現れるようになります。
ところが、利休以前の竹花入として、竹檠を見立て団扇形の花窓を刳り抜いた紹鴎所持「洞切」をはじめ紹鴎作と伝える竹花入が何口か現存します。
これについては『逢源斎書』に「一、竹花入の筒事。紹鴎作と申候は無事也。利初に候。」、『随流斎延紙ノ書』に「一、たけ置花入、無事なり、紹鴎たけ置花入とて、片桐石見守切被申候しとなり」とあり紹鴎作を否定しています。
ただ、他にも「天下御作 天正十五年十月六日大会」の漆書と利休の花押のある豊臣秀吉作で利休が拝領したとされる根付竹を寸切にした「大会」(だいえ)という銘をもつ竹花入が伝来しています。
さらに『茶道筌蹄』に「利休二重切に上り亀の蒔絵をなし正親町天皇へ献す、端の坊は利休八幡端の坊にあたふ」とあり、これも伝存しますが、正親町天皇は天正14年(1586)には譲位しており、これも利休三筒より前の作ということになります。
おそらく、利休以前にも竹で作られた花入は存在したが、利休によって正式な花入として認知されたのということなのではないかとされます。
竹花入の基準となっている「尺八」「一重切」「二重切」の利休三筒のほかに、遠州により「藤浪」など上の輪に節を置いた掛切や二重切の輪と柱を切り取った「再来」銘の「輪無二重切」が作られ、宗旦により舟形の「横雲」「貨狄舟」「丸太舟」など釣舟が作られ、藤村庸軒により一重切の窓を吹貫にした「置筒花入」が作られます。
また、利休が薮内剣仲に花を入れて送ったとされる薮内家伝来の手桶形の「送筒」(利休送筒)と呼ばれるものもあり、これは花を運ぶための「通い筒」を見立てたものです。
他に、表千家の逢源斎好「長生丸」、覚々斎好「沓舟」、如心斎好「置尺八」「稲塚」「根深一重切」「酢筒」、裏千家の仙叟好「太鼓舟」「旅枕」「窓二重」「ヘラ筒」「鶴首」、又玄斎好「色紙」、玄々斎好「御神酒筒」「三徳」などがあります。

利休作の竹花入れについては、『茶話指月集』に「此の筒(園城寺)、韮山竹、小田原帰陣の時の、千の少庵へ土産也。筒の裏に、園城寺少庵と書き付け有り。名判無し。又、此の同じ竹にて、先ず尺八を剪り、太閤へ献ず。其の次、音曲。巳上三本、何れも竹筒の名物なり。」、『逢源斎書』に「一、竹筒事。小田原陣御供休被参。其時大竹在之故、花入に切被申候。園城寺も其時の花入。日本第一。小田原より帰陣在之。園城寺少庵へみあげ心に越被申候。尺八は堺いたみやに宗不に在之。休持用也。」 、『茶道筌蹄』に「太閤小田原城を攻られし時、居士供奉し陣中にある事久し、或時伊豆韮山山城内に大竹ある由をきゝて矢文を以て其守将北條美濃守氏規に乞得て華入二筒を製し其一筒は尺八と名付け即ち太閤へ献す、一筒は一重切園城寺と銘し少庵へ与ふ、是竹華入の始也」とあり、『茶湯古事談』には「秀吉公、小田原御陣の時、利休も茶釜つけたる七節のゑつるの指物さし、馬上にて御供申せし、石垣山の御陣城にも数奇屋をかこはせられ、橋立の御壷、玉堂の御茶入なとにて、家康・玄旨・由古、利休に御茶給り、又信雄卿・忠興・氏郷・景勝・羽柴上総守勝雅に前波半入杯加へられ、御茶給りしとなん。同陣中にて、利休韮山竹の勝れて見事なるを見出し、是そよき花生ならんと秀吉公へ申上しに、さあらは切よと有し故切しに、利休も是はと驚く程によく出来たりし故差上しに、存の外御意に不入、さんざん御不快にて庭前へ投捨にせられし故、同所にて尺八を切差上しに、是は大に御意に入し、前の竹よりあしかりしかとも、御秘蔵なりしか、利休死罪の時御怒りの余り、打わり捨させられしを、今井宗及ひそかに取あつめ置、後つき合せ秘蔵せし、年を経て堺の住吉屋宗無所持せしか、宗無死後に同所伊丹屋宗不値百貫に求めて家に伝しとなん。はしめの竹は、庭の石にあたりひゝき入しか、利休ひろひて、少庵へ土産とせし、或時是を床にかけ花入しに、客か水のしたゝりて畳のぬるゝを見て、いかゝといひしに、此もるこそ命なれといひし、三井寺の鐘のひゝきを思ひよせて、園城寺と名つけ、則筒に園城寺少庵と書付有、後は金粉にてとめて有、後に金屋宗貞かもとにありしを、京の家原自仙か八百両に求置し、或時尾州の野村宗二か京都に遊ひ帰るとて、自仙へ暇乞に行しに、来年の口切頃には必のほられよ、園城寺つゐに茶に出さぬか、来年は始て出さんといひしかは、宗二もそれはかりに又上京せしに、彼園城寺を出し口切せしに、あらたにかこひをたてしか、みゆる所に竹一本も遺さりし、是園城寺の竹に憚りしよし、京中の茶人も称美せし、自仙子なく、甥の徳助を養ひ、家財共に譲りしか、後に不勝手になりかゝりし此、或人江戸の町人冬木にいひしは、兼々園城寺を望まれしか、自仙跡も不勝手に成行は、今にては手にいるへし、本は八百両にてかひしか今は判金にては百枚にはうるへし、弥求め遺すへきやといひしに、冬木大ひに悦ひ、何とそもらひくれよ但し八百両を判金百枚にまけさせる事は望なし、それては道具の威かさかる程に、やつはりもとの値段に八百両にもらひくれよとありしかは、やかて冬木か方へおくりしとなん、又同竹にて音曲を切し、是に狂哥あり、其文いまに京の人所持すとなん、亦よなか、二重筒も利休作にて百会にいたせり、はし之坊と云も同作にて名高しとなん。韮山竹、利休見出し切そめて竹の名所と成し、御当代になりてォりに切事御停止也、故に世にまれなりしとなん。」とあります。

     
二重切  尺八  輪無二重切  置筒

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