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硯蓋

利休形 折敷 両椀 煮物椀 吸物椀 八寸 飯器 湯桶 通盆 脇引

双蝶蒔絵螺鈿硯蓋 東京藝術大学大学美術館所蔵

硯蓋(すずりぶた)は、懐石道具の一で、茶事において主客が献酬するための肴(八寸)を盛って出すために用いられる、四方に低い立ち上がった縁の付いた角盆をいい、漆塗で、多くは蒔絵や螺鈿が施されており、干菓子器や点心を盛る器などとしても用いられます。
硯蓋は、本来は文字通り、硯、墨、筆などの文具を収めた硯箱の蓋のことで、硯箱の蓋を裏返して物を入れ、人の前に出したり、人に贈ることは、平安時代の歌や物語に見え、宮中行事にも見えます。
硯蓋は、江戸時代に入り寛永年間(1624〜1643)頃から用いられるようになったといい、経済が発展し町人層が台頭した元禄(1688〜1704)以降に個別の器物として作られ肴を盛る器として流行ったもののようです。
硯蓋は、本膳料理の膳組にもなりますが、武家の式正の饗応膳としての本膳料理が確立した室町期には見られず、江戸時代になってから饗応料理として広く普及・変容するなかで本膳料理の膳組の中に取り入れられ、献立の名称にもなります。
硯蓋は、主に蒔絵を施した漆器でしたが、尾形乾山が焼物でこれを写し、切立縁を付けた正四方の角皿を作り、「乾山焼硯蓋」と呼ばれました。

  『当世茶之湯独漕』「硯ふた」  乾山銹絵菊画角皿  秋草蒔絵硯蓋 根津美術館蔵
杉八寸  当世茶之湯独漕  乾山焼硯蓋  秋草蒔絵硯蓋

『当世茶之湯独漕』宝永元年(1704)刊に「硯ふた」とあります。
『東雅』享保二年(1717)序に「今俗に硯蓋といふものは、もとこれ硯匣の蓋也。広蓋といふものは、もとこれ衣箱蓋なり。」とあります。
『紳書』に「惣じて堂上の物を安置する多くは小蓋とて硯蓋也。御笏も笏の制そひて後、小ぶたへまいらすると也。広ぶたは衣筥の蓋也。」とあります。
『二条家内々御番所日次記』」享保九年(1724)三月十六日条に「一、同中納言殿より文、倉田隼人右同斯也、乾山焼硯蓋箱入進上仕候」、同十八日条に「御同所へ右府様より乾山焼硯蓋弐つ被進也」とあるといいます。
『貞丈雑記』に「硯箱又硯蓋の事、古は、硯箱に物を入れて人にも贈り、又物など入れて人の前にも出したりとぞ。もとより蓋のみ用ゆるは常のことなり。今の世にも硯蓋として遣う物も、そのことの残れるなるべし」とあります。
『莛響録』に「広蓋と申もの堂上方にも被用候哉。広蓋の事、或人御説に、衣櫃の蓋なりと承及候。堂上方専被用候得共、おもてむきの調度にては無之。内々被用候。衣櫃のふたに衣装を盛る候義は、旧例多有之候。衣櫃の蓋と申御説、其義相叶候様に被存候。当時の硯蓋の如し。昔も実に硯筥の蓋を用候事なれども、今は別に蓋ばかりを調へ用之候。広蓋も亦如此か。しかし衣櫃の蓋の余風もなくなりて、広蓋といふ一種の器物成たる事も、又既に久しき事なり。」とあります。
『骨董集』文化十年(1813)序に「今の硯蓋といふものは、いと近年比造出したるものにや、古き絵に見えず、(元禄十七年の)印本の絵に、重箱ありて硯蓋なし、卵子酒(寶永六年作享保七年板)の絵に、硯蓋ありて重箱も交りてあり、自笑の草紙(宝永七年板)の絵には、硯蓋のみありて重箱はなし、これより後西川祐信がかける印本の絵などを、あまた見るに、硯蓋のみありて重箱なし、これ等をもておもふに、重箱に肴を盛ことは、元禄の末にすたれて、硯蓋に盛ことは、宝永年中に始りしとおもはる、但硯箱の蓋に菓などを載たる事は、古き記録或は歌集などに見えたり、山の井(慶安元年印本)巻之五に、新黒谷の花見の事をいへる条に、あやなる硯箱やうの物のふたにくだものいれ、青きひとりにたきもののえならぬ、くゆらせたり云々、といへるも、ふるき物語ふみの体をうつせるものとおぼゆ、近世好事の者、古へ菓を盛たるにもとづきて、硯箱の蓋に肴を盛しが始となりて、つひに一種の器物になりしなるべし、されば硯蓋は式正に用ゆる器物にはあらず、今民家にて正月屠蘇酒の肴を重箱に盛は宝永以前の古風の残れるなり、三疋猿(支考撰、上梓の年号なし、按るに宝永の比なるべし、著作堂蔵本) (附合の句)菊の香に菓子とりまぜて硯蓋 蘭小 硯蓋に菓子を盛たる事は、近は此に見えたり、本朝ゥ士百家記(宝永五年印本)巻之五、云々なんど。とりつくろひての饗応、硯蓋に干菓子うづだかくもりて。結のしふさやかにけはふたるは云々、ここにもかくいへり、硯蓋に干菓子を盛しは、いにしへ菓を盛しなごりにや、とまれかくまれ肴を盛一種の器物となりしは、宝永以後の事なるべし、今さまざまの形を造かへて、硯蓋と称るは、原をうしなへる也」 「硯蓋再考 今昔物語に肴物の交菓子をもりたる事見ゆしかれども民間にてこれを用ゆるは宝永以後の事なるべし、但式正のものにあらずとはいひがたき証あり、その外古書にすヾり蓋、手筥の蓋などに物のせたる事をあまた見いでヽ此條に挙」とあります。
『春水日記』文化十一年(1814)十二月十日に「馬牽入、田上諸人・上月六蔵・藤岡八蔵、右三人附添、門前にて暫時騎試、三人へ硯蓋にて杯事少々いたし、時刻に付本膳。」とあります。
『嬉遊笑覧』文政十三年(1830)序に「重箱は(狂言記菊の花)などに見え、又(林逸節用)に載たり、(好古日録)に、重箱は慶長年中、重ある食籠にもとづきて始て製造す、されども基用ひたるやうは折匱と同じ、をりうづは桧のうす板を折曲て筥に作る、形は四角六角さまざまなり、今はこれを折といふ、足利家の頃のものにも専ら折と書たれば、これも近世の称呼にはあらず、折うづに肴物餅菓子何にても盛り、桧の葉をかひ敷、四すみに作り花などを立て飾とす、蓋あり、御前へは取て出す、昔の画をみるに、重箱も一重づゝ分ちて肴を盛り、草木の枝を四隅にさして飾れり、元禄ころ迄は飲席にも是を用ひたり、基後今の硯蓋出来て、酒の肴はこれと皿鉢とに盛こととなり、重箱は正月用るのみなり(三月の重づめは、ひな祭美麗になりてよりのことなれば、昔よりの事にあらず)」 「硯蓋は、元禄已後多く見えたれども、諸国咄二巻〈貞享二年版〉時代蒔絵の硯箱の蓋に、秋の野をうつせしが、此中に御所落雁煎榧さまさまの菓子つみてとあり、但しいまだ一種の器物に作りしにはあらず、俳諧三疋猿〈寛永元年支考撰〉末をとめたる竹のしら露(季覽)菊の香に菓子取ませて硯ぶた(凉莵)此頃よりのち、肴などをも盛るものとはなりしなるべし、磁器の皿鉢に盛ことは寛永中よりもありて古画にもみゆれど、 飲席の体かけるに今のことく膳出たるはなし、羹はあれどもくひ終れはおろす故なるべし」とあります。
『茶式花月集』天保八年(1837)刊に「銚子硯蓋持出酒をすすめ、挨拶有て引事常の如し。」「菊絵硯蓋 外法 大さ八寸七分四方 高一寸二分但内法 板厚一分半 裏一分しヽつけて かどのめん二分三厘 すヽめいかけ二分 高へ一分」とあります。
『茶道筌蹄』弘化四年(1847)刊に「総菓子盆」として「菊絵硯蓋 桐木地錫縁、菊の絵、花は胡蝶、葉は紺青なり、宗全好」とあります。
『茶式湖月抄』嘉永四年(1851)刊に「菊画硯蓋 外法 大さ八寸七分四方 高さ一寸二分内法 板厚一分半 うら一分しヽ附 かどのめん二分三りん すヾのいかけ二分 高さ一分」「銚子硯ぶた持出酒をすヽめ、挨拶有て引事如常」とあります。
『守貞漫稿』嘉永六年(1853)序に「江戸料理茶屋も先年は京坂と同様にて今の如く会席料理には非ず皆各余計に出し、口取肴も硯蓋に多く積み台にのせ、浜焼も全身の鯛を出せし也、故に価も大略一人分金一分許りを下らず、天保初比以来会席料理と云こと流布す、会席は茶客調食の風を云也、口取肴など人数に応じ出之て余肴の数を出さす、其他肴も准之前年の如く、多食の者の更に余肴無之腹も飽に至らず、而て調理は益を精を競へり、今世会席茶屋にて最初煎茶に蒸菓子も人数限り一つも多く出さず、口取肴も三種にて織部焼などの皿に盛り最も数を限り余計無之口取肴の前に坐付、味噌吸物、次に口取肴、次に二つ物と云て甘煮と切焼等各一鉢、次に茶碗盛人数一碗宛、次に刺身以上酒肴也、膳には一汁一菜香の物」とあります。
『故実拾要』慶応四年(1868)刊に「硯蓋とは硯筥の打かぶせの如蓋成物也、梨地、高蒔絵、金の沃懸等ある物也、凡家には喰積の台とて、種々の物を盛飾也、如此の物堂上には聊無之事也、都て堂上諸家中、年始并婚姻、元服、拝賀等の祝義、酒肴の時は、硯蓋に雉子の羽盛、海老の舟盛等を用る事也」「正月飾三方 是堂上諸家中、正月三方の飾には、熨斗蚫、昆布、此二種を切て、硯蓋と云物に盛り、白箸一膳を添て三方に載之也、年始客対の時、件の三方を主人の前に備ふ、時に主人以箸熨斗蚫昆布を挟之進客、終て引之也、硯蓋とは硯筥の打かふせの如蓋成る物也、梨地、高蒔絵、金の沃懸等ある物也、凡俗家には、喰積の台とて種々の物を盛飾也、如此の物堂上には聊無之事也、都て堂上諸家中、年始并婚姻、元服、拜賀等の祝義、酒肴の時は、硯蓋に雉子の羽盛、海老の舟盛等を用る事也」とあります。
『俚言集覧』に「硯ぶた [諸国咄](貞享板)時代蒔絵の硯箱の蓋に秋野のを写せしが、此中に御所落雁煎榧さまざまの菓子つみて云々、これは硯箱の蓋にもりし也、[俳諧三疋猿]菊の香に菓子取りまぜて硯ぶたとあり、此頃より肴など盛る為に硯ぶた出来しと見ゆ。」「本膳 式正に用ゐる膳立をいふ、二の膳、三の膳あり。」とあります。

『後拾遺和歌集』応徳三年(1086)奏覧に「後冷泉院御時上東門院に御ゆきあらんとしけるをとゝまりてのち、うちより硯の箱のふたに桜の枝をいれてたてまつらせ給ひたりける御返しに、おほせことにてよみ侍ける 上東門院中将 みゆきとか世にはふらせて今はたゝ木末のさくらちらすなりけり」とあります。
『新古今和歌集』元久元年(1204)奏覧に「ひとゝせ忍て大内の花見にまかりて侍しに、庭にちりて侍し花を硯のふたに入て、摂政の許につかはし侍し 太上天皇 けふたにも庭をさかりと移る花消すはありとも雪か共見よ」とあります。
『古今著聞集』建長六年(1254)成に「平治元年二月廿五日、御方違のために、押小路殿に行幸有けり、透廊にて夜もすがら御遊ありけるに、女房の中より硯蓋に紅の薄様をしきて、雪をもりて出されたるに、和歌をつけたりける、月影のさえたるをりの雪なればこよひははるもわすれぬるかな、返し、くまもなき月のひかりのなかりせばこよひのみゆきいかでかは見ん」とあります。
『花園天皇宸記』元弘二年(1332)に「刻限、新院御随身(文澄、文久、ヽヽ三人也)立明(北上西面)。上達部着座 次居肴物(檜折敷高坏、大臣三本、納言以下二本)、大臣前(殿上四位陪膳、同五位役送)、納言以下前(殿上五位役送、頼教、奥、宗兼、端)。此間依上首命、蔵人頭着座 其次可然殿上人有之者、同可召付、六位蔵人居肴物(懸盤一脚)。次居菓子(盛硯蓋二合或三合、或盛手筥蓋二合或三合)  殿上五位役之、公卿上首前一合、座末一合(殿上人之間)。」とあります。
『洞中年中行事』に「葉に手向の歌を被書付、是を御硯蓋にのせ、内侍持出て藏人に被渡、藏人請取て是を七夕に備るなり、御殿の棟へ上る也」とあるといいます。

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