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青貝香合

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青貝布袋香合 利休所持 本間美術館蔵

青貝香合(あおがいこうごう)は、螺鈿で装飾された漆器の合子を云ったもののようです。
青貝(あおがい)は、蝶貝(ちょうがい)、夜光貝(やこうがい)、鮑(あわび)など真珠層(しんじゅそう)をもつ貝殻を、内側の真珠層の部分を切りだし、刃物や砥石などで方形に切断し薄く磨き上げ板状に加工し、そこから文様を切り出し、漆地や木地の彫刻された表面に嵌め込んだり、貼り付ける装飾である螺鈿(らでん)のことで、貝摺(かいずり)ともいいましたが、江戸時代には、螺鈿、貝摺の語に代わり、青貝の呼称が一般的に用いられていました。
螺鈿は、螺甸、螺填、蜔嵌、陥蚌、坎螺、鈿螺とも記され、文献的には宋代の淳熙元年(1174)成『爾雅翼』に「鈿螺光彩可飾鏡背」とあるのが初出といいますが、正倉院の遺品などから、唐代には既に著しく発達していて、奈良時代に日本に伝わったと考えられており、平安時代には、日本の技術が非常に発達しますが、中国では安史の乱後の奢侈禁止令や社会の混乱により、螺鈿の技術は宋代にはほとんど継承されず衰退してしまい、日本の螺鈿が宋にも輸出され、日本が発祥と考えられるまでになりますが、元代になると唐代のような蝶貝や夜光貝などを鏨や糸鋸で文様に切り鑢で形を整え漆地や木地を削って嵌め込む、いわゆる厚貝の手法とは異なり、鮑などの貝を煮ることで貝の層を薄く剥がし文様の形に整えて器面に置き上に漆を塗って研ぎ出した、いわゆる薄貝の手法よる新たな螺鈿法が出現し、明代において発展し、唐物として日本に舶来して、奈良平安以来の厚貝による螺鈿が乳白色を基調とした真珠光沢の色調を主とするのに対し、薄貝は膜層により青から赤までの変化があり、その青みを帯びた美しい光沢が印象的なために、薄貝による螺鈿に青貝の呼称が用いられ、次第に螺鈿一般をさすようになったのではないかとされます。
青貝烏合は、『松屋会記』慶長十三年(1608)二月廿五日「青貝ノ香入」とあるのが初出とされます。
青貝香合は、安政二年(1855)刊『形物香合相撲』では「世話人」に位置します。

『蔭涼軒日録』明應二年(1493)四月に「二日 不参。天快晴。青貝筆一對。青漆鞘柄小刀一箇。進龍公。」とあります。
『節用集』天正十八年(1590)本に「密石(アヲガイ)穀梁傳天子宮室加密石」、饅頭屋本に「鈿螺(アヲガイ)」、慶長二年(1597)易林本に「青貝(アヲガイ)」とあります。
『松屋会記』慶長十三年(1608)二月廿五日昼少庵不時会に「しやうはり釜、自在鉄のつる、先炭をめさる、炭斗さいろう、鉄箸、青貝ノ香入」とあります。
『雍州府志』に「青貝 螺鈿之所用、二条河原町人家、麿之売漆匠家、阿蘭陀不滅貝並琉球貝之螺鈿之上品也、古代器物木地螺鈿悉用斯貝今多磨石決明千里光貝」(青貝 螺鈿用うる所、二条河原町人家之を磨り、漆匠家に売る、阿蘭陀、不滅貝並びに琉球貝、是れ螺鈿の上品也、古代の器物木地螺鈿は悉く斯の貝を用ふ、今多くは石決明・千里光の貝を磨て之を用ふ)とあります。
『名物六帖』に「○螺鈿(アヲカヒ)正字通、説文、鈿、金華也、六書故金華爲飾田田然、螺鈿、婦人首飾以翡翠丹粉爲之〇按、螺鈿以海螺劈片爲飾、故曰螺鈿、正字通誤。 〇螺填(アヲカヒ)方鉛荘編、螺填器本出倭國物象百態頗極工巧非若今市入所售者〇按、中國有螺填、觀明人小説似元明時傳自我國方燕ン宋紹聖後、而其言如斯、則傳中國已六百餘年矣。 ○蜔嵌(アヲカヒ)遵生八牋、有漂霞砂金蜔嵌堆漆等製、又香几面以金銀蜔嵌昭君圖精甚。」とあります。
『類聚名物考』に「螺鈿とは、今俗に云貝の事にて、古き物には、かひすりたる鞍などゝいへるも、貝細工は木地へほり入れて、地さびをして、上をすりみかきとぎ出せは摺貝ともいふなり、螺介の名にて鈿は字書にも金華錺と有れは金貝蒔繪の事なり、貝に金銀銅の切金入しをすべていひて、まづは螺字を本軆とすれば貝細工と見てよし、今案に螺鈿は今俗に云ふ貝ぶせなり、鈿は飾の事なり」「摺貝 すりがひ すなはち螺鈿装なり、今俗に貝といふ、この介はふせてうへをぬりて、さて磨出す物故にかくいふならん、物にはかひすりたる調度なども見えたり」とあります。
『茶道筌蹄』に「香合は道具中にて至極輕き物ゆへ、利休百會にも香合の書付なし、夫故名物も少なし、名物は堆朱青貝に限る」「青貝 唐物琉球と二品あり」とあります。
『貞丈雑記』に「螺鈿の事、螺は青貝、鈿は切金也。又青貝ばかりをも螺鈿と云なり。又古書に貝を摺るとあるも螺鈿の事也。金貝と云も螺鈿の俗称也。金貝鞍、太平記、建武式目追加、室町記等に見たり。金貝とて、別にはあらざるべし。切金と青貝にて飾りたるなるべし。山岡浚明が名物考に云、螺鈿今俗に云青貝の事にて、古き物には、貝すつたる鞍などいへり。鈿は飾也と云り。されど螺鈿の本儀は青貝と切金也。壺井義知云、螺鈿、本儀は金と貝にてあるべけれども、皆貝斗を用て螺鈿と云例也云々。鈿は玉篇に曰、徒練切、金花也。又鈿、字彙云、金華飾、又螺鈿云々。」とあります。
『安斉随筆』に「貞丈云はく唐土の青貝は色美ならず曇りて見へ、其製漆地より青貝高く出たる多し、琉球の青貝は色美にて光彩強し、其製漆地とともに平なり、貝を用ふるに紅紫緑紺の色をわけて遣ふなり、其細工唐人の及ばざる所なり、又日本の青貝は鮑貝を用ふる故うね々々としたる理見ゆるなり、琉球の青貝はうね々々見えず、琉球の青貝はヤコ貝といふ物を用ふ、屋久の島より出づる貝なり、丸く細長き色に光る所あり、白き所あり、白き品は巾着などの緒締の玉に作る純白なるものなりと薩摩人の談なり、其の人の所にかのヤコ貝を手水鉢にして置きたりと云ふ大なるものなり」とあります。
『先民傳』に「青貝氏長兵衛能為螺鈿給食。前之邑無此工。自長兵衛傳之華人。而後知造焉。長兵衛為人剛介好讀書。雖造工之次。不輟巻而讀之土人以為異矣。」とあります。
『和訓栞』に「あをがひ 青貝の義、螺鈿をいふ、泊宅編に、螺鈿器本出倭國と見えたり」とあります。
『髹飾録』に「螺鈿 一名蜔嵌 一名陥蚌 一名坎螺 即螺填也、百般文圖、點抹鉤條、總精細密緻畫爲妙、又分載殻色、隋彩而施綴者、光華可賞、又有片嵌者、界郭理皺、皆以劃文、又近有加沙者、沙有細粗。殼片古者厚而今者漸薄也、點抹鈎條、總五十有五等無所不足也、殼色有黄赤白也、沙者殼屑、分粗中細、或爲樹下苔蘚、或爲石面皴文、或爲山頭霞氣、或爲汀上細沙、頭屑極粗者、以爲氷裂文或石皺亦用、凡沙与極薄片宜磨顕揩光、其色熠熠共不宜朱質矣。」 (螺鈿 一名蜔嵌 一名陥蚌 一名坎螺 即ち螺填なり、百般文図、点抹鉤條、総て精細密緻画の妙をなす、また殻色を分載す、彩に随いて施綴するものは、光華賞すべし、また片嵌のものあり、界郭理皺、皆以て文を劃す、また近く沙を加ふるものあり、沙に細粗あり。殼片古きものは厚く今のものは漸薄なり、点抹鈎條、総て五十有五等足らざる所なし、殼色は青黄赤白あるなり、沙者殼屑なり、粗中細に分かつ、或は樹下の苔蘚となし、或は石面の皴文となし、或は山頭の霞気となし、或は汀上の細沙となす、頭屑極粗きものは氷裂文となる、或は石皺もまた用ひらる、凡て沙は与極薄片と宜く磨顕揩光すべし、其色熠熠共に不宐朱質に宜しからず。)とあります。
『東大寺獻物帳』に「螺鈿紫檀琵琶一面 緑地畫捍撥 納紫綾袋浅緑臈纈裏。紫檀琵琶一面 緑地畫捍撥 納紫綾袋緋綾裏。螺鈿紫檀五弦琵琶一面 龜甲鈿捍撥 納紫綾袋浅緑臈纈裏。螺鈿紫檀阮咸一面 緑地畫捍撥 納紫綾袋浅緑臈纈裏。」「右納第一樻。 圓鏡一面重大七斤五両 径一尺二寸九分 平螺鈿背 緋絁帯 漆皮箱緋綾嚫盛。圓鏡一面重大六斤一両 径一尺二寸五分 漆背 金銀平脱 緋絁帯 漆木匣緋綾嚫盛。八角鏡一面重大五斤一両 径一尺一寸 平螺鈿背 緋絁帯 漆皮箱緋綾嚫盛。八角鏡一面重大四斤三両 径一尺 平螺鈿背 紅羅繍帯漆皮箱 緋綾嚫盛。圓鏡一面重大三斤十三両 径九寸一分 平螺鈿背 緋絁帯 漆皮箱緋綾嚫盛。圓鏡一面重大三斤八両 径九寸 平螺鈿背 緋絁帯  漆皮箱緋綾嚫盛。圓鏡一面重大三斤十二両 径九寸 平螺鈿背 緋絁帯 漆皮箱緋綾嚫盛。八角鏡一面重大四斤二両 径九寸六分 漆背 金銀平脱 緋漆皮箱緋綾嚫盛。 右納第二樻。 八角鏡一面重大三斤四両 径九寸二分 平螺鈿背 緋絁帯 漆皮箱緋綾嚫盛。」とあります。
元豊七年(1084)成『資治通鑑』永定三年(559)条に「丁酉、上不豫、丙午、殂。上臨戎制勝、英謀獨運、而為政務崇寛簡、非軍旅急務、不輕調發。性儉素、常膳不過數品、私宴用瓦器、蚌盤、殽核充事而已、後宮無金翠之飾、不設女樂。」とあります。
『新唐書』本紀第六粛宗至徳二年(757)十二月に「禁珠玉、寶鈿、平脱、金泥、刺繍。」(珠玉、寶鈿、平脱、金泥、刺繍を禁ず)とあります。
『建炎以來繋年要録』建炎元年(1127)十二月に「初温杭二州上供物寄留鎮江其間椅桌有以螺鈿為之者守臣龍圖閣直學士錢伯言奏發赴行在上惡其靡亟命碎之通衢。」とあります。
宋方勺(1066〜?)撰『泊宅編』に「螺填器本出倭國、物像百態、頗極工巧、非若今市人所售者。」とあります。
『宋史』外國傳日本國に「又別啓貢佛經、納青木函。琥珀・青紅白水晶・紅K木槵子念珠各一連、並納螺鈿花形平函。毛籠一、納螺杯二口。葛籠一、納法螺二口・染皮二十枚。金銀蒔繪筥一合、納髮鬘二頭。又一合、納參議正四位上藤佐理手書二卷、及進奉物數一卷、表状一卷。又金銀蒔繪硯一筥一合,納金硯一、鹿毛筆、松烟墨、金銅水瓶、鐵刀。又金銀蒔繪扇筥一合,納檜扇二十枚、蝙蝠扇二枚。螺鈿梳函一對、其一納赤木梳二百七十、其一納龍骨十橛。螺鈿書案一、螺鈿書几一。金銀蒔繪平筥一合、納白細布五匹。鹿皮籠一、納䝚裘一領。螺鈿鞍轡一副、銅鐵鐙、紅絲鞦、泥障、倭畫屏風一雙、石流黄七百斤。」とあります。
『清波雑志』に「高宗践祚之初、躬行儉コ、風動四方。一日、語宰執曰、朕性不喜與婦人久處、早晩食只麺飯、炊餅、煎肉而已。食罷、多在殿旁小閣垂簾獨坐。設一白木卓、置筆硯、並無長物。又嘗詔有司毀棄螺填倚卓等物、謂螺填淫巧之物、不可留。仍舉、向自相州渡大河、荒野中寒甚、燒柴、借半破瓷盂、温湯𣶐飯、茅簷下與汪伯彦同食、今不敢忘。紹興間、復紆奎畫以記損齋、損之又損、終始如一。宜乎去華崇實、還淳返朴、開中興而濟斯民也。」とあります。

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