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備前香合
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備前香合(びぜんこうごう)は、備前国(岡山県等)で焼かれた合子を云ったもののようです。
備前焼(びぜんやき)は、「日本国の六古窯(瀬戸、常滑、信楽、越前、丹波、備前)といわれるなかで最も古い窯で、平安時代に作られた須恵器に源があるといわれますが、今の岡山県備前市伊部(いんべ)周辺に窯が築かれたのは鎌倉時代で、主に壷・甕・擂鉢が多く作られましたが、この頃から次第に現在の備前焼特有の赤褐色の焼肌のものが焼かれ始めました。 室町時代になると、村田珠光に和物の代表として「ひせん物」「しからき物」として取り上げられ、他の古窯に先駆けて、茶碗、花入、水指などの茶陶づくりが始まり、桃山期から江戸初期、最盛期を迎えますが、朝鮮出兵後は磁器と釉薬陶の時代を迎え、「きれい寂び」の時代が到来すると、備前は泥臭い「下手物」として扱われるようになり低迷していきます。昭和に入り、金重陶陽(人間国宝)が桃山時代の美を現在によみがえらせ、備前が活気づき、その後、藤原啓、山本陶秀、藤原雄と人間国宝が輩出し、現在は多くの窯元や陶芸家が作陶して活況を呈しています。
備前焼は、釉薬(うわぐすり)を一切使わない無釉(むゆう)陶器で、鉄分を多く含んだ茶褐色の地肌と長時間の焼き締めでの窯変(ようへん)による景色に富んだ器肌が特色です。
備前焼の窯変による主なものには、「緋襷」(ひだすき)、「桟切」(さんぎり)、「胡麻」(ごま)、「牡丹餅」(ぼたもち)、「青備前」(あおびぜん)、「榎肌」(えのきはだ)などがあります。
備前焼は、茶道具としては>水指、建水、花入が主で、香合はごく稀で、茶会記にみえるのは『松屋会記』「久好茶会記」慶長六年(1601)十一月二十日古田織部の茶会が初出です。
『禅鳳雑談』永正十三年(1516)十一月五日条に「伊勢物、備前物なりとも、面白く工み候はば勝り候べく候」とあります。
『心の文』に「古市播磨法師 珠光 此道、第一わろき事ハ、心のかまんかしゅう也、こふ者をはそねミ、初心の者をハ見くたす事、一段無勿体事共也、こふしゃにハちかつきて一言をもなけき、又、初心の物をはいかにもそたつへき事也、此道の一大事は和漢之さかいをまきらかす事、肝要ゝゝ、ようしんあるへき事也、又、当時、ひゑかるゝと申して、初心の人体が、ひせん物・しからき物なとをもちて、人もゆるさぬたけくらむ事、言語道断也、かるゝと云事ハ、よき道具をもち、其あちわいひをよくしりて、心の下地によりてたけくらミて、後まてひへやせてこそ面白くあるへし也、又、さハあれ共、一向かなハぬ人体ハ、道具にハからかふへからす候也、いか様のてとり風情にても、なけく所、肝要にて候たゝかまんかしゅうかわるき事にて候、又ハ、かまんなくてもならぬ道也、銘道ニいわく、心の師とハなれ、心を師とせされ、と古人もいわれし也」とあります。
『陶器考附録』に「備前 一、備前焼南蛮を写す、窰古し、尹部村に窰ありて備前一国の陶器かま印を付て持来り、焼こと三十日、火気をさますこと三十日の後窰をひらくと云、尹部と云、備前と云来るものあれとも、すへて備前やきなり、只出来ふりにて云のみ。一、尹部の内に大壷なとの中へ入て焼たる薬かヽりの上作ものは世人是を高取と云、上作にて高取に見違たるなり、高取は土赤く只火をうけたるはかり、備前は紫土にしぶを塗たる如く金気を吹出す、薬か濃き萌黄薬にて高取とよく似たり、糸切に習いあり、此手の茶入と瓢形・擂盆形水指あり、高取と云来る此外のものは朝鮮唐津・高取・丹波・さつまなとに見違きたる。一、水指茶入鉢方六なとに呂宋ふゆかん窰のもの混す、かま印もあり、土かたく胡麻薬または黄黒の薬、鉄気を吹出したるはふゆかん也。」とあります。
『本朝陶器攷證』に「色々手あり、矢筈水指などは田土なり、夫故土ざんぐりとす、出来は土より出るゆゑ薬はなし、赤白青の火がはりに出る、惣体濃き鼠色なり、田土の外の土の物は惣体にかたく出来、黄の胡麻薬なども出るなり、緋襷手色々あり、甲乙大小多し、地土白くさえたすきのたつを賞くわんす。尹部 備前窰なり、今にても備前国にて、尹部窰として大窰のよし、色々の手ありて大小甲乙あり、上手のよき水指などは至て薄造り、上作にて面白き物なり、黄薬多きをよしとす。」とあります。
『松屋会記』慶長六年後十一月廿日昼古織會に「炭斗ふくへ、桑箸、香合備前、御炭両度あり」とあります。
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