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御本物香合
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御本物香合(ごほんものこうごう)は、日本から見本を送って朝鮮で焼かせた合子を云ったもののようです。
御本(ごほん)は、御手本(おてほん)の意で、紙形・絵図・木形・土形などの手本(見本)をもとに朝鮮で焼かれたものをいい、寛永十六年(1639)徳川三代将軍家光が細川三斎の喜寿を祝うため元旦大福御用の茶碗として、家光自画の立鶴の下絵に、小堀遠州が茶碗の形を意匠し、これを対馬藩宗家の取次で朝鮮に注文し、これを受けた 東萊府(とうらいふ)が礼曹の許可を得て河東と晋州の陶土と陶工を選び茶碗を作製したと伝えられ、この茶碗を「御本立鶴茶碗」といい、御手本から始まったことから御本とよばれ、またこれらの茶碗には、胎土の成分から淡い紅色の斑点があらわれることが多く、この斑点を御本または御本手(ごほんで)と呼ぶこともあります。
正保元年(1644)朝鮮釜山の和館内に御用窯が築かれ、大浦林斎、中山意三、船橋玄悦、中庭茂三、波多野重右衛門、宮川道二、松村弥平太、平山意春らが燔師(はんし)としておもむき、朝鮮の陶工を指導して注文品を焼かせ、御本立鶴(たちづる)、御本雲鶴、御本三島、御本堅手、絵御本、御本半使、御本御所丸、御本金海、御本呉器、砂御本など非常に多様なものが焼造されましたが、元禄をすぎるとしだいに陶土の集荷が困難になり、享保三年(1718)に閉窯されました。
御本物香合は、安政二年(1855)刊『形物香合相撲』では「世話人」に位置します。
『萬賞全書』に「御本手 利休、織部本なり、是は兩人共に公方より、御本を受物好を加へ、高麗へ誂へ遣されしを、本のごとくにして本朝へわたりたるを、御本手と云、次第々々に御本有、▲茶碗、鉢、皿、香炉、萬小道具有、薬色は白し。」とあります。
『茶道筌蹄』に「御本 遠州時代日本より注文ありしとぞ」とあります。
『嬉遊笑覧』に「御本手は略て御本ともいふ、御本手茶碗のみにあらず桟留島にあり、産業袋に赤糸入の立しまを俗に奥島といへり、是を御本手といふ、紺地に浅黄色島を青手といふなといへり、今も御本手の外をかはり島といふ、常に多くあるを本とするはもとより此所にて定めたる名なり、異やうならでよき程なるを本とすといへる詞そのかみの習ひなり、彼處はあつらへ遣はして燒せたる故御本といふとは非なるべし、さあらば布もその分にや(江戸本所の地名御本松といへる處によき松あり是又同例なり)判司は彼處の官人がもたりし器を本とするなり」とあります。
『名物目利聞書』に「御本は寛永の頃日本より手本を遣したる故に、葵紋付たるは其時より参りしもの也、棧留にも其名有之、此うち立鶴筒形三ツ割高台にて、前後に鶴の紋在之、是は細川三斎老人へ賀の御茶給りし時、参り候よし、当時高料にて、世に数少なし」とあります。
『茶器目利聞書』に「御本 宗甫切形にて焼かせたる故に御本と云ふ、又茂三御本も唐人の名なり、御本て利休織部本なり、是は両人共に公方より御本を受け物好を加へ、高麗誂へ遣しゝを本の如くにて本朝へ渡りたるを御手本と云ふ、次第々々に御本あり、茶碗、元鉢、皿、香炉、萬小道具あり。」とあります。
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