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漢東物香合

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漢東物香合

漢東物香合(かんとうものこうごう)は、中国清代の広東より舶載された合子を云ったもののようです。
漢東(かんとう)は、広東(かんとん)の当て字で、広東窯(かんとんよう)と総称される肇慶府陽江県の広窯、広州府南海県の石湾窯、広州府の焼付など古くから多数の窯があり、康煕二十三年(1683)清の海禁が解かれ、十八世紀頃に広東港から輸出された中国磁器を「広東焼」と呼んだといいます。
漢東物香合は、安政二年(1855)刊『形物香合相撲』では「世話人」に位置します。

『萬賞全書』に「漢東(カントウ) 唐なり、是より渡道具、織物嶋の類、塗物品多し」とあります。
『山陽遺稿』に「随君遊芳野獻君以酒巵云是廣東窰金骨土為肌恃其堕不砕攜将上厜〓(厂義)」(君に随つて芳野に遊び。君に獻ずるに酒巵を以てす。云ふ是れ廣東の窰と。金骨にして土肌を爲す。其の墮ちて砕けざるを恃み。攜へて将に上厜〓(厂義)に上らんとす。)とあります。
『屋代弘賢日記』に「十錦手茶碗、夏目和泉守奉行の時、広東焼の金を入さるを好まれし時、十種の模様を焼渡す、それより十錦手と名付しとなり」とあります。
『飲流齋説瓷』に「廣窯宋南渡後所建在廣東肇慶陽江縣胎質粗而色褐(即灰色)所製器多作天藍色惟不甚猿ィ釉厚之處或作靛藍釉薄之處或作灰藍無釉處所呈之色或如黄醤或如麻醤大致倣均而無紅斑興蟹爪文則興均異也廣窯又名泥均蓋以胎骨係以烏泥製成而倣宋均青色之釉汁也然多淡青帶灰於灰釉之中露出深藍色之星點或如雲斑霞片頗呈異采視彼窯變涙痕者猶似勝之或以泥宜音相近遂將宜興所倣之均窯廣窯混合其訛實甚宜興瓷胎興廣窯瓷胎似同而實異至釉汁雖形似而寶大殊(詳下歐窯一段)縱有彼此倣製者不難一望而知何至因音相近而混合耶廣窯在粵名曰石灣蓋南海縣佛山鎮之一村名也自明時已遷於此宋陽江舊窯今日早已消減矣清初頗有良工數人其倣均見稱於世自日本嗜之謂其國人所授價遂倏漲然實無稽之談也至今日製器尚盛實則胎質粗下遠不及潮陽合浦(潮陽合浦其瓷質甚白類似醴陵然名不出於省外無良工故也吾粵殊賤視之徒以其歴史甚古曾出良工省外遂頗重視諺所謂物離郷貴者非歟」 (廣窯 宋南渡の後、建つる所、廣東肇慶陽江縣に在り、胎質は粗にして色は褐なり(即ち灰色)製する所の器多くは天藍色をなし、ただ甚だ奄ヘざるのみ、釉厚き處は或は靛藍をなし、釉の薄き處或は灰藍をなす、釉無き處呈する所の色、或は黄醤の如く或は麻醤の如し、おおむね均に倣ふも、紅斑と蟹爪文と無し、則ち均と異なるところなり。廣窯はまた泥均と名づく、蓋し胎骨は烏泥を以て製成す、宋の均の青色の釉汁に倣へるなり。然れども淡青多くは灰を帯び、灰釉の中に深藍色の星點を露出し、或は雲斑・霞片の如く頗る異采を呈す、かの窯變の涙痕を視るは猶之に勝るに似たり。或は泥と宜と音相近きを以つて遂に宜興にて之を倣する均窯と廣窯とを混合する所は其の訛れるや實に甚し、宜興の瓷胎と廣窯の瓷胎の同じく似たれども實は異なれり、釉汁に至りても形は似ると雖も寶は大に殊なり(詳下歐窯一段)縱ひ彼此倣製する者あるも一望して知り難からざるなり、何ぞ音相近きに因りて混合するに至らんや。廣窯は粵に在るものを名づけて石灣と曰ふ、蓋し南海縣佛山鎮の一村名なり、明の時より此に遷り、宋の陽江の舊窯は今日早已に消減せり、清初に良工數人あり其の均を倣せるもの世に稱せらるを見る、世に日本之を嗜むと謂ふより其國人の授ける所の價たちまち漲然となる、實に無稽の談なり、今日に至るも製器尚ほ盛んなるも實は則ち胎質粗にして下りて遠く潮陽・合浦に及ばず、(潮陽。合浦、其瓷質甚だ白くして醴陵に類似す、然れども良工なきが故に名は省外に出でず)吾が粵にありて殊に之を賤視すれども其の歴史甚だ古く曾て良工を出せるを以つて省外遂も頗る重視す、諺のいわゆる物は郷を離れて貴しとするものにあらんや)とあります。

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