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九谷香合
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九谷香合(くたにこうごう)は、加賀国(石川県)江沼郡九谷村で焼かれた合子を云ったもののようです。
九谷焼(くたにやき)は、江戸初期に焼かれた「古九谷(こくたに)」と江戸後期の再興九谷、明治初期以降の近・現代の九谷焼に大別され、加賀藩の支藩である大聖寺藩初代藩主前田利治(1618〜1660)が、後藤才次郎に肥前有田で製陶の修行をさせ、その技術を導入し、陶工を連れて帰って明暦元年(1655)頃に加賀国江沼郡 九谷村 (石川県江沼郡山中町九谷)で開窯し、田村権左衛門を指導して色絵磁器を焼いたのが始まりとされ、紫・緑・黄を主調とし、補色として紺青・赤で彩色した五彩手や 花鳥、山水、風物、文様と言った意匠を大胆に配した構図は、狩野派の狩野探幽四天王の一人・久隅守景(くすみもりかげ)の指導を受けたとも伝えられています。宝永七年(1710)頃、窯は突然閉鎖されますが、文化四年(1807)京都の青木木米を指導者に招き加賀藩営で金沢に春日山窯が開窯されたことを機に、大聖寺藩内でも九谷焼再興の動きが起こり、九谷焼は再興され、これより後の九谷焼を「再興九谷」と呼び、大聖寺の豪商豊田伝右衛門が古九谷再興をめざし古九谷窯跡地に開いた「吉田屋窯(1824〜1831)、有田で陶画を学んだ木崎卜什が築いた「木崎窯(1831〜1870)」、宮本屋宇右衛門が休窯した吉田屋窯を買収し再興させた「宮本屋窯(1832〜1859)」、大聖寺藩が山本彦左衛門に命じて江沼郡松山村に築かせた「松山窯(1848〜1872)」などが築かれ、大聖寺藩は、万延元年(1860)物産役所を設置。続いて宮本屋窯を買収し「九谷本窯」と称し、山代の三藤文次郎と藤懸八十城の二人に資金を貸与し陶業復興に取り組ませ、慶応元年(1865)京都の名工永楽和全を招聘し、九谷陶業は活況を見せましたが、明治新政府の発足により大聖寺藩がなくなり再び困難を迎えます。
再興九谷には窯ごとに特徴ある技法・画風があり、五彩手や緑を主体に紫・黄・紺青で全面を塗りつぶした青手の「古九谷風」、青木木米の指導により全面に赤をほどこし五彩を用いて中国風の人物画を描く「木米風」、赤を使わず四彩で模様のほかに小紋を地模様風にして全面を塗りこめた青手古九谷の「塗埋手」を再興し、一見青く見えるので「青九谷」と呼ばれる「吉田屋風」、赤絵による細密な絵柄で全体を埋め尽くし金彩を加えた「飯田屋風」、全面を赤で下塗りし、その上に金のみで彩色した金襴手の「永楽風」、古九谷・吉田屋・赤絵・金襴手のすべての手法を間取り方式で取り入れ洋絵具等も駆使した彩色金襴手で明治以降の産業九谷の主流となった作風の「庄三風」などの呼称があります。
九谷香合は、古九谷には香合の遺例は知られておらず、文政年間(1818〜1830)に吉田屋窯が開かれて以降のものと思われます。
『本朝陶器攷證』には「明暦元年六月二十六日、加州江沼郡九谷村にて始て焼出す。大聖寺二代飛騨守様之御時、楽焼御好にて御手製あそばされ候、其頃御近臣之内、後藤三次郎と申仁、至て功者にて、御手伝いたし居られ候所、御前より仰付られ候には、其方高麗に罷こし伝授を得、三年之内に罷帰り候様仰付られ、夫より慶安三年、かの地へ罷越し候得ども、中々以伝授をゆるさず候故、色々思案いたし、先其国の住人と心を落つけ、婿入いたし候所、程なく一子出生致し候につき、漸伝授いたし候、夫より本国へ逃げ帰り候所、最早年数も六年相立、其上殿様にも御逝去に相成、既に御臨終の時、三次郎と申者、此後罷帰り候とも、用事無之者の候得ば、左やう相心得候様、御家老始夫々へ仰付られおかせられ候ゆゑ、右三次郎帰国いたし候所、御暇之身と相成候得ども、かの地にて自分も相好、骨折稽古いたし、私の長逗留にもこれなき事故、御評定之上、聊之御扶持下され、山籠り仰付られ候よし、夫より三次郎、并田村権右衛門と申者と両人、九谷にて焼始候所、其頃画工狩野守景、絵修行にあるき候よしにて九谷へ参り、下絵をかき候との事、後藤一代にて休窯に相成候」「一、文政七年申年、再び九谷に窯所を設、七月七日焼はじめ候所、一ヶ年にて相止み候、一、窯元は大聖寺吉田屋傳右衛門、職人は木越八兵衛と申者、一、文政八年酉年、同郡山代新村領、字ハ越中谷と云所に窯をこしらへ焼出し申候、尤窯元は大聖寺宮本利八、職人は木越八兵衛、画工は飯田八郎と申者にて候、只今は九谷高麗と相唱申候」とあります。
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