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樂焼代々香合

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樂焼代々香合

樂焼代々香合(らくやきだいだいこうごう)は、長次郎を祖とする樂家代々の作成した合子のことです。
樂焼代々は、初代長次郎(〜天正十七年)、二代常慶(〜寛永十二年)、三代道入(慶長四年〜明暦二年)別名ノンコウ、四代一入(寛永十七年〜元禄九年)、五代宗入(寛文四年〜享保元年)、六代左入(貞享二年〜元文四年)、七代長入(正徳四年〜明和七年)、八代得入(延享二年〜安永三年)、九代了入(宝暦六年〜天保五年)、十代旦入(寛政七年〜安政元年)、十一代慶入(文化十四年〜明治三十五年)となっています。
樂焼代々香合は、安政二年(1855)刊『形物香合相撲』では「世話人」に位置します。

長次カ黒菊桐香合   常慶雀香合   道入赤樂兎香合
長次郎 黒菊桐   常慶 雀   道入 赤樂兎
一入根太香合   宗入菊置上蛤香合   左入赤樂白蔵主香合
一入 根太   宗入 菊置上蛤   左入 赤樂白蔵主
長入緑釉象香合   得入平雀香合   了入赤樂鶴香合
長入 緑釉象   得入 平雀   了入 赤樂鶴
旦入樂織部写香合   慶入赤樂鶴香合    
旦入 樂織部写   慶入 赤樂鶴    


『本阿弥行状記』に「樂焼の事、飴屋長次郎が親は中華の人なり。長次郎陶物を焼はじめし故、飴屋焼きと申せしを、天正十二年豊臣殿下樂といふ字の印を遣わされしより、則これを姓として、樂焼と始(初)めて申せしとぞ。今の吉兵衛(道入)は至て樂の妙手なり。我等は吉兵衛に薬等の伝も譲りを得て慰みにやく事なり、後代、吉兵衛が作は重宝すべし。しかれども当代は先代より不如意の様子也。惣て名人は皆貧なるものぞかし。」とあります。
『茶道筌蹄』に「樂焼歴代。飴也 朝鮮の人也、或説にあめやは朝鮮の地名、大永の頃日本へ渡り、後弥吉と云ふ、長次郎まで四代あるとぞ」「尼焼 日本人貞林と云ふ、飴屋の妻也」「長次郎 飴也の子なり、利休千氏に変し旧姓を長次郎へ譲る、それより今に田中を氏とす、文禄元壬辰九月七日卒す、行年不詳」「樂焼類。伯藏主 光悦手造を、原叟、左入に命して寫させ、箱書付をなす。蛤 宗全このみ、金ために白菊。鳥の子 宗全手造、宗乾書付のうつしあり。舟引 左入作、如心齋このみ、赤。木魚 如心齋このみ、赤。總 如心齋このみ、赤にて甲にすヽきの穂のもやうあり。鯉 如心齋このみ、手遊の金魚のやうにて、背中あかく丸し。柏樂 如心齋このみ、たんはんとあかと両様あり、江岑このみの通なるを、蓋身横に分る。手造 手造は光悦より始る、光悦薬はのんかう藥と自分と両様あり、千家にては江岑より始る。」とあります。
『嬉遊笑覧』には「豊臣太閤聚樂にて朝鮮の陶師をめし利休に其法式を命じて茶碗を焼せらる、是を樂焼といふ、聚樂の字を分て印となす、その陶師を朝次郎と称するは朝鮮の一字を取たる也、その子孫今に栄ふ」とあります。
『茶器名形篇』に「樂焼家系譜 飴也。朝鮮人来朝して樂焼の祖となる。妻は日本人飴也。没後長次郎幼少に依て母の剃髪後茶器を造て焼たる尼焼と云。母迄は樂焼とは不言。住所上長者町西洞院東え入北側。」とあります。

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