? 琉球物香合(りゅうきゅうものこうごう)
 

 
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琉球物香合

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行司・頭取・勧進元 差添・世話人

琉球青貝香合 宗旦所持 表千家不審庵蔵

琉球物香合(りゅうきゅうものこうごう)は、沖縄で造られた、いわゆる琉球漆器の合子を云ったもののようです。
琉球漆器(りゅうきゅうしっき)は、「螺鈿」(らでん)、「沈金」(ちんきん)、「箔絵」(はくえ)、「堆錦」(ついきん)など多彩な飾技法があるのが特徴で、「螺鈿」は夜光貝や鮑貝を薄く磨り文様の形に切ったものを器に貼り上から漆を塗り乾いたら木炭や砥粉と油を混ぜたもので貝を砥ぎ出す青貝法で中国元明代の技法が伝わったものと考えられており、「沈金」は文様を線彫りし彫った線に漆を擦りこみ乾かないうちに金箔を押さえるように貼り付ける技法で、「箔絵」は漆で文様を描き上から金箔等を貼り文様を表すもので、「堆錦」は顔料と漆を練り合わせ粘土状にしたあと薄く延ばし文様に切り取り器面に貼りつけさらに細い線を彫ったり着色などをして仕上げる琉球漆器独自の技法です。
琉球漆器の歴史は、史料が乏しく推論によるものが多いですが、琉球における漆に関する最も古い記録は『中山世譜』宣徳二年(1427)条に中国明朝第五代皇帝宣宗(在位1425〜1435)が生漆購入のために内官を琉球に遣わしたというもので、琉球は洪武五年(1372)明の洪武帝の使者楊載が遣わされ、これに対し中山王察度が弟泰期等を遣わして明の朝貢国となり、これ以降中国の文物が急速に入ってきて、記録や伝承はないものの、この頃に漆器の技法も中国から伝わったと考えられています。慶長十四年(1609)薩摩の侵攻以後は、組織的に漆器を作るため貝摺奉行所(かいずりぶぎょうしょ)を設け、絵師や工人をなどを置いて、意匠や技術の改善などを行うほか、工人を外国に派遣し、積極的に技術の導入を行い、中国皇帝・日本の徳川将軍家や薩摩島津家への献上品や贈答品を作成し、琉球王国の外交を支えました。
琉球物香合は、琉球王より宗旦に贈られたという表千家不審庵蔵の琉球青貝香合が有名です。
琉球物香合は、安政二年(1855)刊『形物香合相撲』では「世話人」に位置します。


『朝鮮王朝實録』「成宗實録」成宗十年(1479)に「乙未、濟州漂流人金非衣、姜茂、李正等三人、還自琉球國、言所歴諸島風俗、甚奇異。」「俺等適見國王之母、出遊、乘漆輦、四面垂簾、舁者幾二十人、皆着白苧衣、以帛裹首。」「一、有寺刹、以板爲蓋。 内施漆、有佛像、皆黄金、居僧髡首、或緇衣、或白衣、其架裟、與我國同。」「一、飯盛漆木器、羹盛小磁器、又有磁楪、有筯而無匙、筯則木也。」「一、軍士以鐵裹脛、或用皮着漆、如行纏焉。」「適有日本 覇家臺人新伊四カ等、以商販來到、請于國王曰、我國與朝鮮通好、願率此人、保護還歸。國王許之、且曰、在途備加撫恤、領回。仍賜俺等錢一萬五千文、胡椒一百五十斤、染布唐緜布各三匹、又賜三朔糧米五百六十斤、鹽醤、魚醢、莞席、漆木器、食案等物件。」とあります。
『雍州府志』貞享元年(1684)序に「青貝 螺鈿之所用、二条河原町人家、麿之売漆匠家、阿蘭陀不滅貝並琉球貝之螺鈿之上品也、古代器物木地螺鈿悉用斯貝今多磨石決明千里光貝」(青貝 螺鈿用うる所、二条河原町人家之を磨り、漆匠家に売る、阿蘭陀、不滅貝並びに琉球貝、是れ螺鈿の上品也、古代の器物木地螺鈿は悉く斯の貝を用ふ、今多くは石決明・千里光の貝を磨て之を用ふ)とあります。
『琉球國由来記』康熙五十二年(1713)上覧に「貝摺師 當國貝摺師、崇禎九年丙子、國吉(後領伊平屋比嘉)入閩三年滯在、學貝摺塗物。同十四年辛已、為貝摺師。此本國青貝師始也。煮貝者、康煕二十九年庚午、關氏大見武筑登之親雲上憑武、(後為嘉手納領主)於杭州學之、翌癸酉、移教貝摺主取、神谷親雲上也。」「貝摺奉行(奉行一員、筆者二員) 尚寧王御代、萬歴四十年壬子、閏十一月廿日、毛氏保栄茂親雲上盛良、任此職。(見家譜)自何御代為始哉、未詳。兼總貝摺師(主取二員)繪師(主取一員、属官六員)檜物師(主取一員)磨物師(主取一員)木地引勢頭(一員)御櫛作(主取一員)三線打(主取一員)矢矯(主取一員)也。中頃分置引物奉行。今貝摺奉行兼之也。」とあります。
『中山世譜』雍正三年(1725)序に「(宣徳二年)本年夏、宣宗遣内官柴山齎勅至國、賜王皮弁冠服、妃綵幣等物。勅曰、今遣内官柴山、前來賜爾皮弁冠服、并齎銅錢、收買生漆、及各色磨刀石。勅至、爾即領價收買、交付柴山進來、故諭。」 「(康煕)五年丙午春、王遣正議大夫鄭思善、使者毛榮清等赴京、奉表入貢、又于常貢外加進紅銅六百斤、黒漆龍畫螺盤十個、稱爲外貢、而欽賞如例。(外貢例自此始)」 「七年戊申春、王遺耳目官呉文顯(遣耳目官從此而始)、正議大夫王明佐等入京、奉表貢方物、時于外貢内減去黒漆龍畫盤十、而進黒漆瑫螺茶鐘一百個。聖祖降勅奨諭(後毎入貢賜勅爲例)、及欽賞如例。」とあります。
『歴代寶案』に「琉球國中山王臣尚巴志奏爲 開讀事宣コ二年六月初六日蒙欽差内官柴山 齎捧勅諭頒賜皮弁冠服并銅錢收買生漆及各色磨刀石欽此除欽遵切縁坐買第六樣磨刀石本國採辨自進外其餘各色磨刀石并生漆別無所産曷敢有違隨即差令的當頭目管領人船前至鄰國産有地方收買遇彼國爭戰客路不通若候完日誠恐有悞應用今依時價買到生漆貳百七拾斤共五樣磨刀石計三千捌百伍拾伍斤先付欽差内官柴山來船裝載赴京進收續後再買至日另行進用及備細移咨禮部外謹具奏聞 右謹奏聞 宣コ三年二月十一日琉球國中山王臣 尚巴志」 (琉球国中山王臣尚巴志、謹んで奏す。開読の事の為にす。宣徳二年(1427)六月初六日、欽差の内官柴山、勅諭を齎捧するを蒙るに、皮弁冠服を頒賜し、并びに銅銭にて生漆及び各色磨刀石を収買せしむ。此れを欽む。欽遵して切に坐買の第六様磨刀石は本国にて採弁して自ら進むるに縁るを除くの外、其の各色磨刀石并びに生漆は別に産する所無きも曷ぞ敢えて違うこと有らんや。随即に的当の頭目に差令して人船を管領し、隣国の産有の地方に前至して収買せしむるも、彼の国の争戦に遇いて客路通ぜず。若し完日を候たば、誠に応用に悞るる有るを恐る。今、時価に依り生漆二百七十斤、共に五様の磨刀石計三千八百五十五斤を買到し、先ず欽差の内官柴山の来船に付して装載し、京に赴き進収せしめ、続いて後、再た買い至るの日、另に進用を行う。備細に礼部に移咨するに及ぶの外、謹んで具して奏聞す。右、謹んで奏聞す。宣徳三年(1428)二月十一日 琉球国中山王臣 尚巴志)とあります。
『球陽』乾隆十年(1745)編述に「(尚巴志王)六年。宣宗遣使賜皮辨冠服。並買生漆各色磨石。宣宗遣内官柴山齎勅至國。賜王皮辨冠服。妃綵幣等物。勅曰。今遣内官柴山。前來賜爾皮辨冠服。並齎銅錢。收買生漆,及各色磨石。勅至爾即領價収買。交付柴山。進來故諭。」 「房弘コ始為堆錦塗蒙腸褒奬。首里房弘コ(比嘉筑登之親雲上乗昌)自盡工夫。始為異製漆法以飾器物。名之曰堆錦塗以供國用。因蒙褒奨。賞賜太平布三疋米一石。後賜名護間切喜瀬地頭職。」(房弘徳、始めて堆錦塗を為り、褒奨を賜はるを蒙る。首里の房弘徳{比嘉筑登之親雲上乗昌}、自ら工夫を尽くして、始めて異製の漆法を為り、以て器物を飾る。之れを名づけて堆錦塗と曰ひ、以て国用に供す。因りて褒奨を蒙り、太平布三疋米一石を賞賜さる。後、名護間切喜瀬地頭職を賜はる。)とあります。
『茶道筌蹄』に「香合は道具中にて至極輕き物ゆへ、利休百會にも香合の書付なし、夫故名物も少なし、名物は堆朱青貝に限る」「青貝 唐物琉球と二品あり」とあります。
『中興名物記』に「一 琉球青貝香合 千宗佐 琉球王より宗旦に来る、古宗佐箱書付」とあります。
『千家茶事不白斎聞書』に「竹の節釜置は宗旦好也、是は琉球王より宗旦へ花入を頼越候時、右花入を切て被遣、残りの竹に而釜置に成、是より釜置初る。此釜置宗守へ遣し候由也。右花入の礼として、琉球より青貝の香合へ伽羅を入来る。此香合今に有。」とあります。
『安斉随筆』に「貞丈云はく唐土の青貝は色美ならず曇りて見へ、其製漆地より青貝高く出たる多し、琉球の青貝は色美にて光彩強し、其製漆地とともに平なり、貝を用ふるに紅紫緑紺の色をわけて遣ふなり、其細工唐人の及ばざる所なり、又日本の青貝は鮑貝を用ふる故うね々々としたる理見ゆるなり、琉球の青貝はうね々々見えず、琉球の青貝はヤコ貝といふ物を用ふ、屋久の島より出づる貝なり、丸く細長き色に光る所あり、白き所あり、白き品は巾着などの緒締の玉に作る純白なるものなりと薩摩人の談なり、其の人の所にかのヤコ貝を手水鉢にして置きたりと云ふ大なるものなり」とあります。
『嬉遊笑覧』に「堆朱を剔紅といふ、元の時張成・楊茂はその名匠なり。典籍便覽、剔に紅器無新舊但看朱厚色鮮紅而堅重者爲好云々宋朝内府中物多是金銀作素者元末嘉興西塘揚匯張成揚茂剔紅最得名但朱薄而不堅者多浮起日本琉球國極愛此物と云り。爰にて堆朱の初久しからぬものにや。人倫訓蒙図彙に日本にて彫はじめしは下京邉に門入とて其名四方に聞えたる名人ありし、その子孫佛光寺通東洞院西へ入處堆朱屋二郎左衛門とて名人今もあり、昔の門入にはまさりなんと皆人申あへり。江戸鹿子、堆朱彫物師南大工町養Cとあり、こゝにて造るものは、皆似剔紅にて真の製ならず。古董家の説に、堆朱は彫めに段々の筋みゆるをよしとすといへれど、さやうの堆朱はあらず、同色の朱をかさぬるに筋のみゆべきやうもなし必ず誤傳なり、筋のみゆるは別物也。」とあります。
『髤飾録』天啓五年(1625)撰に「剔紅 即彫紅漆也、髤層之厚薄、朱色之明暗、彫鏤之精粗大甚有巧拙、唐制多印板刻平錦朱色、彫法古拙可賞、復有陷地黄錦者、宋元之制藏鋒清楚、隱起圓滑、繊細精緻、又有無錦紋者、共有象旁刀跡見K綫者極精巧、又有黄錦者、黄地者次之、又礬胎者不堪用。 唐制如上説而刀法快利非後人所能及陷地黄錦者其錦多似細鉤雲與宋元以来之剔法大異也藏鋒清楚運刀之通法隱起圖滑壓花之刀法繊細精緻錦紋之刻法自宋元至國朝皆用此法古人積造之器剔跡之紅間露K綫一二帶一綫者或在上或在下重綫者其間相去或狹或闊無定法所以家家爲記也黄錦黄地亦可賞礬胎者礬朱重漆以銀朱爲面故剔跡殷暗也又近琉球國産精巧而鮮紅然而工趣去古甚遠矣。」 (剔紅 即ち彫紅漆なり、髤層の厚薄、朱色の明暗、彫鏤の精粗大甚巧拙あり、唐制の多くは印板刻平錦朱色にして、彫法古拙賞すべし、復た陷地黄錦のものあり、宋元の制は藏鋒清楚、隱起圓滑、繊細精緻なり、また有無錦紋の無きものあり、共に象旁刀跡K綫を見るものあり、極めて精巧なり、また黄錦のものあり、黄地のもの之に次ぐ、また礬胎のものは用ゆるに堪えず。唐制は上説の如し、而して刀法快利後人の能く及ぶ所に非ず、陷地黄錦のもの其錦多く細鉤雲に似たり、宋元以来の剔法と大に異なるなり、藏鋒清楚運刀の通法隱起圖滑、壓花の刀法、繊細精緻なり、錦紋の刻法は宋元より國朝に至るまで皆此法を用ゆ、古人積造の器は剔跡の紅間にK綫一二帶を露す、一綫は或は上に在り、或は下に在り、重綫のものは其間相去り、或は狹く、或は闊く定法なし、家家記をなす所以なり、黄錦黄地また賞すべし、礬胎のもの礬朱重漆銀朱を以て面となす、故に剔跡殷暗なり、また近く琉球國産は精巧にして鮮紅なり、然り而して工趣古を去ること甚だ遠し。)「彫綵 即假雕綵也制如堆紅而罩以五綵為異。今有飾黒質以各色凍于隠起團堆𣏓頭印劃不加一刀之彫鏤者又有花様錦紋脱印成者倶名堆錦亦此類也。」(彫綵 即ち假雕綵なり、制堆紅の如し而して五綵を以て罩するを異となす。いま黒質を飾るに各色を以てし、凍于隠起、團堆𣏓頭、印劃一刀の彫鏤を加へざるものあり、また花様錦紋脱印して成れるものあり、ともに堆錦と名るもまたこの類なり。)とあります。

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