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丹波香合
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丹波香合(たんばこうごう)は、丹波国(兵庫県)立杭(篠山市今田町立杭)を中心として焼かれた合子を云ったもののようです。
丹波焼(たんばやき)は、「立杭焼」(たちくいやき)ともいい、日本六古窯の一つで、平安末期から鎌倉初期から始まるとされますが、大同元年(806)長門国萩の陶工・風呂藪(ふろやぶ)惣太郎(宗太郎)が陶法を伝えたという口碑もあり、
慶長末頃まで三木峠、床谷(とこらり)、源兵衛山、太郎三郎(たきうら)、稲荷山などの「穴窯」(あながま)で、轆轤を使わず紐状にした粘土を積み上げて作る「紐作」(ひもづくり)の大型の壷や甕(かめ)や擂鉢など焼締(やきしめ)が焼かれ、釉薬(うわぐすり)を用いず、燃えた薪の灰と胎土中の鉄分が融け合い緑色や鳶色に発色した自然釉が特徴となっています。穴窯時代の末期になると、大型徳利(とっくり)や桶(おけ)なども作られるようになります。これらを窯の所在地の名を採って「小野原焼」といい、この時代を「小野原焼時代」と呼んでいます。
慶長十六年(1611)頃に朝鮮式半地上の「登窯」(のぼりがま)が「釜屋」(かまや)の山麓に築かれ、左回りの蹴轆轤(けろくろ)、釉薬も使われるようになります。この時代を「釜屋時代」と呼んでいます。
寛永年間(1624〜1645)、小堀遠州(1579〜1647)の指導により茶碗・茶入・水指・建水等が作られ「遠州丹波」と称され、中興名物に湯来美術館蔵の遠州所持丹波耳付茶入「生埜」(いくの)があります。
宝暦二年(1752)頃に、それまで村落をはなれた釜屋の山麓あった登窯が、下立杭、上立杭の山裾に築かれるようになります。この時代を「里窯時代」「後期丹波」などと呼んでいます。
丹波焼は、鉄分の多い土で、黒味を帯びさびた味わいがあります。釉薬は登り窯になると、「灰釉」(はいぐすり)、黒石を砕いて作った漆黒で光沢のある「飴黒」(あめぐろ)、鉄分を多く含んだ「赤土部」(あかどべ)と呼ばれる艶のある赤茶色に発色する化粧土などが施されるようになります。江戸後期になると、赤土部を更に精製し色艶が栗の皮に似た「栗皮釉」や、白土を水に溶かした「白釉」(はくゆう)、雑木の灰をアク抜きしたあと水簸した「土灰釉」(どばいゆう)が登場します。
『陶器考』に「丹波 一、遠州の茶具を焼しむる所、いつれも茶碗なきことなし、(図)のことく、内外白薬なたれ地薬萌黄をかくる茶わんと、黒と渋まじりの薬に、爵金と浅黄の薬を処々かけたる白土の茶わんとを、茶入に引合すに、寸分違はす、せんさくするに、色々のものを見出せり、其品々左に記す、土色、鼠、黄、白、赤、紫等なり。一、本山亀妙山[ミ子]の印あるものは、近来のものなり。一、丹波の内底に、青き水薬を吹出したるは、呂宋をみ違たるたるなり、水薬をかけたるは丹波なり。一、持前の焼物は世の知処混したるは、瀬戸、唐津、備前、高取、松本、萩、信楽、織部、三嶋、片手、とヽや、呂宋、南蛮、安南、朝鮮もの、朝日。右の写色々有、能々見分されは知かたし、写物よく出来たり。一、茶入の上作なるは大かた呂宋なり、織部好の茶入もあり。」とあります。
『陶器考附録』に「丹波焼 本書に出すゆへ略之。 一、渋薬の内に安南渋薬の品入交る。一、渋と黄交り又は下た薬渋に上薬黄のかヽりたる安南ものを古丹波と見違きたる。一、呂宋もの又ははけ目類の丹波によく似たる出来振のもの丹波と云来る。」とあります。
『本朝陶器攷證』に「一、丹波呂宋とよく似たり、呂宋は土堅く薬つやあり、底に萌黄薬を吹出す、和製は和らかにして底に萌黄薬をぬる、呂宋の丹波に間違ひたる多し、出来ぶりよく似たれば委く見分べし。」「古丹波は惣体作もよく、薬青白などにて、色合ともさびたるものなり、土も薄赤み色にて、こまかくかたき土なり、遠州丹波は、奇麗にて瀬戸薬立もあり、土もざんぐりと荒し、茶入水さしよりなし、茶入には名物あり」とあります。
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