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堆朱香合
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堆朱香合(ついしゅこうごう)は、中国の剔紅(紅を削るという意味)による漆器の合子を云ったもののようです。
堆朱(ついしゅ)は、字義としては朱(漆)を積み上げるという意味で、中国で唐代に始まったとされる剔紅(てっこう)という漆器技法の日本における呼称で、朱漆を何回も塗り重ねて厚い層を作り、これに文様を彫刻したもので、宋代以降の遺品が現存し、元代には張成・楊茂が名匠として知られ、明代に盛行をみます。
堆朱は、日本には鎌倉時代に宋から舶載されますが、我が国で初めて堆朱を造ったとされるのは、『人倫訓蒙図彙』による後土御門天皇の御代(1464〜1500)に下京の漆工門入が始めて彫ったというもの、徳川家の堆朱師楊成家の系図による延文五年(1360)足利義詮の命で長充(ちょうじゅう)が造り、堆朱の姓を賜い、中国元代の堆朱の名工、張成・楊茂の名を一字づつ取り楊成と名乗ることを許されたというものがあります。
堆朱香合は、安政二年(1855)刊『形物香合相撲』では「世話人」に位置します。
『君台観左右帳記』に「剔紅(チツコウ) 色あかし、地に水、わちかへ、ひしなとを、いかにもこまかにほりて、その上に屋躰、人形、花鳥はかり、色々ほり候を云也。 堆紅(ツイコウ) 色あかし、地きうるし、ほりめに黒かさね一、又は二もあり、手ふかく、花鳥をほりたるを云也、花斗ほるもあり。堆朱(ツイシユ) 色あかし、地きうるし、手あさくして、ほりめにくろきかさねなし、たゝあかくぬりあけたるを云也、但堆紅斗の堆朱、堆朱斗の堆紅と云事あり。」とあります。
『人倫訓蒙図彙』に「堆朱彫 唐土にては珍星、張成其外數多の名人あり、日本にて彫はじめしは下京邉に門入とて其名四方に聞えたる名人ありし、その子孫佛光寺通東洞院西は入ところに堆朱や二郎左衛門とて名人今もあり、彫の手きはむかしの門入にはまさりなんとみな人申あへり、江戸東大工町にあり。」とあります。
『万宝全書』に「堆朱、朱彫物、揚茂造る也、色赤し、ほりめうすし、重ね筋なし、みなあかし」とあります。
『嬉遊笑覧』に「堆朱を剔紅といふ、元の時張成・楊茂はその名匠なり。典籍便覽、剔に紅器無新舊但看朱厚色鮮紅而堅重者爲好云々宋朝内府中物多是金銀作素者元末嘉興西塘揚匯張成揚茂剔紅最得名但朱薄而不堅者多浮起日本琉球國極愛此物と云り。爰にて堆朱の初久しからぬものにや。人倫訓蒙図彙に日本にて彫はじめしは下京邉に門入とて其名四方に聞えたる名人ありし、その子孫佛光寺通東洞院西へ入處堆朱屋二郎左衛門とて名人今もあり、昔の門入にはまさりなんと皆人申あへり。江戸鹿子、堆朱彫物師南大工町養Cとあり、こゝにて造るものは、皆似剔紅にて真の製ならず。古董家の説に、堆朱は彫めに段々の筋みゆるをよしとすといへれど、さやうの堆朱はあらず、同色の朱をかさぬるに筋のみゆべきやうもなし必ず誤傳なり、筋のみゆるは別物也。」とあります。
『茶道筌蹄』に「香合は道具中にて至極輕き物ゆへ、利休百會にも香合の書付なし、夫故名物も少なし、名物は堆朱貝に限る、張成、楊茂、周明、此三人宋人にて堆朱の三作と云ふ、張源、錢珍、呂甫、金甫、王圓、王賢、印堆、此七人は、元明間の人にて時代定めかたし、此七人と前三人とを合して、堆朱の十作と云ふ。」とあります。
『髤飾録』に「剔紅 即彫紅漆也、髤層之厚薄、朱色之明暗、彫鏤之精粗大甚有巧拙、唐制多印板刻平錦朱色、彫法古拙可賞、復有陷地黄錦者、宋元之制藏鋒清楚、隱起圓滑、繊細精緻、又有無錦紋者、共有象旁刀跡見K綫者極精巧、又有黄錦者、黄地者次之、又礬胎者不堪用。
唐制如上説而刀法快利非後人所能及陷地黄錦者其錦多似細鉤雲與宋元以来之剔法大異也藏鋒清楚運刀之通法隱起圖滑壓花之刀法繊細精緻錦紋之刻法自宋元至國朝皆用此法古人積造之器剔跡之紅間露K綫一二帶一綫者或在上或在下重綫者其間相去或狹或闊無定法所以家家爲記也黄錦黄地亦可賞礬胎者礬朱重漆以銀朱爲面故剔跡殷暗也又近琉球國産精巧而鮮紅然而工趣去古甚遠矣。」
(剔紅 即ち彫紅漆なり、髤層の厚薄、朱色の明暗、彫鏤の精粗大甚巧拙あり、唐制の多くは印板刻平錦朱色にして、彫法古拙賞すべし、復た陷地黄錦のものあり、宋元の制は藏鋒清楚、隱起圓滑、繊細精緻なり、また有無錦紋の無きものあり、共に象旁刀跡K綫を見るものあり、極めて精巧なり、また黄錦のものあり、黄地のもの之に次ぐ、また礬胎のものは用ゆるに堪えず。唐制は上説の如し、而して刀法快利後人の能く及ぶ所に非ず、陷地黄錦のもの其錦多く細鉤雲に似たり、宋元以来の剔法と大に異なるなり、藏鋒清楚運刀の通法隱起圖滑、壓花の刀法、繊細精緻なり、錦紋の刻法は宋元より國朝に至るまで皆此法を用ゆ、古人積造の器は剔跡の紅間にK綫一二帶を露す、一綫は或は上に在り、或は下に在り、重綫のものは其間相去り、或は狹く、或は闊く定法なし、家家記をなす所以なり、黄錦黄地また賞すべし、礬胎のもの礬朱重漆銀朱を以て面となす、故に剔跡殷暗なり、また近く琉球國産は精巧にして鮮紅なり、然り而して工趣古を去ること甚だ遠し。)とあります。
『秇苑日渉』に「剔紅 剔紅或謂之雕紅。即雕漆也。僞造者曰堆紅、或謂之罩紅。俗通名堆朱。」とあります。
『髤譜』に「堆朱 堆朱は原舶来のみにして而も茶人の愛する所なるを以て堆烏剔紅金絲紅花緑葉桂奬犀皮松皮等と共に其價亦從て貴し我國にて造り創しは下京の人門入といふ者なり(其時代を知らずと盖應仁文明頃なるべし)其子孫西京佛光寺通東洞院西へ入る所に住し堆朱屋二郎左衛門といふ元祿年間の人なり以上人倫訓蒙図彙に據る又江戸南大工町にも堆朱工あることを載す貞享四年の江戸鹿子堆朱彫物師南大工町養清と云ふ者あり是なるべし又京鹿子に西京には柳馬場權兵衛智恩院古門前庄兵衛五條鞘屋町長寛及東洞院松原下る町某の四人を載せたり當時同じく世に行はれしなり」とあります。
『工芸志料』に「後土御門天皇の御宇京師の工人門入といふ者あり支那の法を傳へて能く漆器を製す是を堆朱堆黒といふ。」「堆朱堆黒は傳へて云ふ後土御門天皇の御宇京師の漆工門入といふ者始て製する所なりと髤法は並に支那製を模造せし者にして朱漆或は黒漆を以て厚く塗り而して山水花鳥人物等の圖を彫刻す」「足利義詮の時、明國に通し、其堆朱の法に效ひ之を製する名工あり、其作楊茂張成に似たるを以て、楊成の稱を賜ひ、子孫技を傳ふ、義政の時に及ひ、五十嵐某、泰阿彌、盛阿彌、又羽田五郎あり、共に當時の名工なり、此時楊茂長貞あり、名手を以て供御の物を造り、其後門入なるものあり、明製に效ひ、堆朱堆黒の名手たり、豊公の時、楊茂の七代長親、命により難波彫を作れり、其子長宗亦巧手なり、青貝厚貝等を堆朱に嵌することを發明せり」とあります。
『芸窓襍載』に「貞享四年の江戸鹿子に、堆朱彫物師南大工町養清といふものあり、又京には柳馬場權兵衛、智恩院古門前庄兵衛、五條鞘屋町長寛、及東洞院松原下町某の四人を載せたり、これらと同じころに楊茂長是といふものあり、天和三年時の将軍徳川綱吉公に召抱へられ、ことに寛永五年五月麹町十三町目において、八十八坪の屋敷地を賜りしとぞ、この人享保四年まで三十七年間将軍家に仕へ、その年四月二十七日身まかりぬ、これより子孫代々将軍家の堆朱師となれり、貞享四年の江戸鹿子に、養清を載せてこの人を載せざるはいかにもいぶかし、養清は楊茂のことにあらざるか、楊茂長是の家に傳ふる堆朱家系圖によれば、初代楊茂長充、延文五年始めて堆朱彫を製造す、本邦堆朱の嚆矢なるをもて、時の将軍足利義詮公より、姓を堆朱と賜ひ、且唐山堆朱の名工嘉興府西塘楊匯の人張成及楊茂に一字づゝをとりて、楊茂と名のることを許されしといふ、されども他書にみる所なし、故に予は堆朱家系圖の第十代にあたれる楊茂長是よりこのかたの系圖をとりて、其以前のものをとらざりき、この楊茂家より代々支那堆朱の鑑定書をもいだしゝとぞ。」とあります。
『古今漆工通覧』に「門入 其姓詳かならず京師に住し後土御門帝の朝法印に叙せらる當時日本にて支那の堆朱堆黒の類尤珍重せられたれば門入支那の法に倣ひ堆朱を製作す世人是を賞誉すと云ふ日本に堆朱を製するは此人に始り之れより紅金絲及紅花緑葉に至る迄製すること増々進歩せりと。」とあります。
『堆朱之家譜』に「先祖 楊茂 長充 足利家の臣、将軍義詮の延文、康安、至徳、嘉慶時代の人、堆朱彫の名人にして唐樣を寫して其名天下に顕はる、唐の元朝嘉興府西塘楊匯の人張成及び楊茂にも劣らずとて、故に蒙宣命、張成の成を取り楊茂の楊を取て以て楊茂と名のる、和國堆朱の元祖なり。法號 源鎭院 忌年月、菩提寺不詳」とあります。
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