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楽茶碗

 

茶碗

楽茶碗(らくちゃわん) とは、狭義には樂焼の創始者 長次郎を祖とする楽家歴代によって造られた茶碗をいいます。
もう少し広義には、楽家を本窯物と呼び、楽家以外を脇窯物と呼んで、楽家四代楽一入の子、彌兵衛が玉水に開窯した「玉水焼」の茶碗、楽一入の門人であった長左衛門が金沢の大樋村に開窯した「大樋焼」の茶碗を含めます。
楽茶碗は、轆轤を用いず、手捏ねで成形したあと、鉄や竹のへら、小刀で削って形をととのえ、素焼し、釉薬をかけて、内窯と呼ばれる家屋内の小規模な窯で焼かれ、釉薬の色から、黒楽、赤楽、白楽などの種類があります。
黒楽は、素焼きした素地に、加茂川黒石を使った釉をかけ乾燥させることを繰り返し、匣鉢(さや)に入れて1000〜1250度の温度の窯で焼成し、窯から鉄鋏で挟み出し急冷します。そのため黒楽は鋏痕がついています。
赤楽は、唐土(とうのつち 鉛釉)に長石分を混ぜた半透明の白釉を赤い聚楽土の上にかけ、800〜1000度くらいの低温で短時間で焼成します。赤楽には見込みに目があります。
文政13年(1830)序の『嬉遊笑覧』に「豊臣太閤聚楽にて朝鮮の陶師をめし利休に其法式を命じて茶碗を焼せらる、是を楽焼といふ、聚楽の字を分て印となす、その陶師を朝次郎と称するは朝鮮の一字を取たる也、その子孫今に栄ふ」、天保8年(1837)『茶器名形篇』に「楽焼家系譜 飴也。朝鮮人来朝して楽焼の祖となる。妻は日本人飴也。没後長次郎幼少に依て母の剃髪後茶器を造て焼たる尼焼と云。母迄は楽焼とは不言。住所上長者町西洞院東え入北側。」とあるように、瓦職人であった長次郎が千利休に見出され、聚楽第内で千利休好みの茶碗を焼成し、はじめ「今焼」とよばれたり、聚楽第で製陶したことから「聚楽焼」と呼ばれていましたが、秀吉より「樂」の印字を賜り、以後家号として「樂」を用い、樂焼の名で呼ばれるようになります。
楽茶碗の初見は、一般的には『松屋会記』天正十四年(1586)十月十三日朝、中ノ坊井上源吾茶会の「宗易形ノ茶ワン、吸茶、三畳」とあるものとされています。
ただ、『天王寺屋他会記』の天正七年(1579)十月十七日の山上宗二 茶会の「赤色之茶碗」を赤楽、または天正八年十二月九日の宗易 茶会に「ハタノソリタル茶碗」を長次郎の道成寺とし、天正七年(1579)〜天正八年(1580)を楽焼の創始期とする説もあります。
楽焼の基本的技法は、長次郎作と伝える三彩瓜文鉢などからして交趾系のものとされ、伝存する「天正二春 依命 長次良造之」の刻銘の赤楽獅子留蓋瓦の土や釉が、赤楽茶碗「無一物」や「白鷺」などと極めて類似しているところから、天正二年(1574)には楽焼が作られる条件や可能性があったとされます。
いずれにしても、天正十四年十月十三日の「宗易形ノ茶ワン」以後、茶会記に、俄かに「今ヤキ茶碗」または「ヤキ茶碗」「やき茶碗」という呼称が記載されるようになり、『山上宗二記』に「惣別茶碗ノ事、唐茶碗ハ捨タリタル也、当世ハ高麗茶碗、今焼茶碗、瀬戸茶碗以下迄也、頃サヘ能ク候ヘハ数奇道具二作也」とされるまでになります。
楽家は、初代長次郎(ちょうじろう)、 二代常慶(じょうけい)、三代道入(どうにゅう)、別名ノンコウ、四代一入(いちにゅう)、五代宗入(そうにゅう)、六代左入(さにゅう)、七代長入(ちょうにゅう)、八代得入(とくにゅう)、九代了入(りょうにゅう)、十代旦入(たんにゅう)、十一代慶入(けいにゅう)、十二弘入(こうにゅう)、十三代惺入(せいにゅう)、十四代覚入(かくにゅう)、当代十五代吉左衛門(1949〜)まで、十五代を数えます。

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