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薄茶器

  中次  金輪寺

薄茶器

薄茶器(うすちゃき)とは、薄器(うすき)とも呼ばれ、薄茶を入れる容器の総称です。
薄茶器の材質は、木地・漆器・象牙・竹・一閑張・籠地などがあります。
薄茶器の形状は、大きく分けて「中次(なかつぎ)形」と「(なつめ)形」とに分けられ、中次形としては、円筒形の胴の中央部に合わせ目(合口)がある「真中次(しんなかつぎ)」、真中次の蓋の肩を面取りした「面中次(めんなかつぎ)」、面中次の蓋を浅くした「茶桶(ちゃおけ)」、茶桶の身の裾も面取りした「吹雪(ふぶき)」、形としては、吹雪の角を取り全体を曲面にした「(なつめ)」、を平たくした「平棗(ひらなつめ)」の六種が基本の形です。
薄茶器は、一般的な説としては、元来は唐物茶入の「挽家(ひきや)」(中に入れる茶入の形に轆轤で挽いた木地に漆塗りした容器)で、茶入濃茶を点てたあと、茶入を収める器である挽家で薄茶を点てたのが始まりといわれます。
それが、後に薄茶器として独立し、「塗茶入」と呼ばれるようになり、やがて塗茶入に限って濃茶にも使用するまでになり、時代が進むにつれて形を変化させ、多様な薄茶器が生み出されたとされます。
また、本来薬を入れる器である「薬器」「薬籠」が茶器として見立てられたのが始まりとする説もあります。
別に、後醍醐天皇が作らせたとされる「金輪寺」といわれる寸切形の茶器があり、享徳三年(1454)頃の百科便覧『撮壌集』や室町中期の国語辞典『節用集』に「金輪寺」とほぼ同型の「寸切茶器」を表す「頭切」や「筒切」「寸切」の文字が見られます。

『源流茶話』に「は小壺の挽家、中次ハかたつきのひき家より見立られ候」とあります。
『槐記』に「大体は、茶入の挽家也。夫故文琳、丸壺、肩衝を始として、夫々の茶入の形に応じて、挽家はある物故、唐物廿四の挽家にある形より、外はなき筈也、と合点すべし。是大事の習也。」とあります。
『節用集』に「薬器ヤッキ 薬籠ヤロウ」とあります。
『日葡辞書』に「ヤロウまたはnacatcugui 碾いた茶を入れるある種の小箱」「ナカツキ 碾いた茶を入れておくのに使う、漆塗りの円形の小箱」とあります。
『雪間草』に「薬籠 当世の中次なり黒塗又やろうとも云」とあります。
『茶道筌蹄』塗物作者に「五郎 羽田氏は奈良法界門の傍に住す、夫故五郎の作を法界門ぬりとも云ふ、又羽田盆とも云ふ、珠光時代の棗には、五郎作に限て杉木地板目なり」「余参 記三 両人共京住、紹鴎時代の棗、余三作は蓋かヽり深し、余参聚楽院に卒日を記す、天正十一年癸未四月廿一日」「盛阿弥 京都住、法名は紹甫、太閤天下一の号を賜ふ、二代目盛阿弥よりとも箱あり、三代目盛阿弥終る」「秀次 四代目秀次利休時代なるが名人也、別号林斎」「藤重 藤重は姓也、名は藤巌と云ふ、利休時代也、ぬり物本業にあらす慰にしたるなり、名人なるゆへ江戸へ被召出江戸に住す、其頃大坂落城にて破損せし名器の繕ひ被仰付其賞とてつくもの茶入を賜ふ、二代目より御袋師となる、今に子孫あり、同家にて一代は藤重、一代は藤厳と唱ふ」「宗長 元伯塗師也、関氏余参より盛阿弥まで雕名、宗長以後かき名」 「宗哲 中村八兵衛勇山と号す、一翁宗守の婿也、始は蒔絵師なりしが塗師になりしはもと一翁宗守は塗師吉文字屋甚右衛門方の養子になりたる人也、後ぬ師を中村八兵衛へ譲り茶人となるなり、夫より塗師を業とす。二代宗哲 早世す法名元哲。三代宗哲 別号紹朴又漆桶又勇斎と号す、世に彭祖宗哲と云ふ。四代宗哲 別号深斎、紹朴の養子、初は八兵衛と云ふ。五代宗哲 別号豹斎。六代宗哲 当代初代より通称八兵衛」とあります。
『茶道筌蹄』塗物茶器に「真中次 利休形、指わたし二寸二分、高さ二寸三分、小は一寸八分、藤重作を上作とす、藤重作は竹木地也、外は皆檜木地」「棗(紹鴎形大中小) 当時は紹鴎形を写す、其故は元伯より江岑へ紹鴎の墨書にて底に判ある大なつめへ茶を入て譲る、後に江岑朱漆にてとめる、今一つを元伯蓋の裏に判を書き仙叟へ譲られし故なり、江岑所持は如心斎より三井へ譲る、仙叟所持は泰叟より三村素顕へ伝ふ、当時木村氏所持」「盛阿弥(大) 此作に至て大なるあり、夫を盛阿弥形と云ふ」「利休形(大中小) 当時写し来る形なり」「菊蒔絵(大中) 桐蒔絵(大中) 菊十六葉の内に桔梗あり、菊の大と桐の中とは利休、正親町天皇へ献する形也、菊の中と桐の大とは江岑の補と云ひ伝れとも不分明也、通して利休形と云ふ」 「目張柳(芽張柳ならんか) 織部好、本歌は中也、紀州御茶道中野笑仙所持」「元伯好菊 十一葉、菊の内(図)、東福門院様へ献上、大ばかりなり、白山氏所持」「溜(大中小) 大小桜木地、中は松木地、内黒、何れも元伯好」「鷲 盛阿弥作、自然に少し形の替りたるを利休鷲と銘す、小なつめにして尻すぼらず、山中氏所持、このなつめに似たる大棗を元伯曲首(回首)と云ふ、曲首はわしの異名也、海部屋善次郎所持なりしが大火に焼失す、又大なつめを仙叟撫子と名く、是もわしの異名也、わしの子を愛するに因て名つけしなり、それゆへわしに似たる曲首、曲首に似たる撫子と云ふ、撫子は山中氏所持」「尻張(中) 利休形、黒の中にかぎる」「平 大中共利休形、大の形絶たるを啐啄斎再興」「白粉解(中) 利休形、三宅込羊所持、中ばかりなり、当時山家屋権兵衛所持」「一服入 利休形なり」「茶合(少) 仙叟好、茶入うはき蓋あるなり」「河太郎 仙叟好、大ばかりなり、甲にくぼみあり、覚々斎好大小」「梅菊(中) 春慶、内黒、甲に黒にてねぢ梅二つあり、松木地」「一閑折溜 啐啄斎好、後藤玄乗作也、後寛政年中に紹益友湖取立に梅寒菊の歌を書き三十一閑に作らしむ」「不識 了々斎好、一閑取立数二十五製す、外溜内黒、甲に黒にて不識とありたり、上に判あり」 「金輪寺 木地蔦、外ため、内黒、大は濃茶器、中は啐啄斎薄茶器に用ゆ、吉野山にて後醍醐天皇一字金輪の法を修せられし時、僧衆へ茶を賜ふ時に山中にある蔦を以て茶器を造らしめ賜ふとや、故に金輪寺茶器と云ふ、修法の所を金輪寺と言しとぞ、今の蔵王堂の側実城寺是也、三代目宗哲の写せしは京寺町大雲院の模形なり、大雲院は織田信長公の菩提所也、此茶器信長公伝来七種の内一つ也、底に廿一の内とあり、朱の盆添ふ」「同松木(中) 原叟の好、老松茶器と一同に製す、数五つ、外溜、内黒、後如心斎金輪寺と一閑作の割蓋棗の大とを数五十製す、覚々斎好の内とあり」「同一閑作(中) 元伯好、内外黒、本歌海部屋善次所持、如心斎金さらさの袋を好む」 「老松割蓋 妙喜庵の老松を以て原叟数五十を製す、箱の蓋裏に茶器の記あり、祗南海の作と云ふ記曰、山崎妙喜庵茶亭之側有老松枯成榾柮以之作茶湯珍器聊伝遺愛於千歳而己、覚々斎判あり、木地近左作也、此茶器に長緒能く似合とも、わり蓋あしらひの上長緒あしらひ如何と袋出来せざる内帛紗包にして用られし由、後に北野天満宮へ十七日参詣しくじをとつて長緒に定められし由、覚々斎の頃まで長緒中絶してありしが千家にて長緒を用るは此茶器より始る」「同薄茶器 
『茶道筌蹄』塗物薄茶器に「茶桶 大小共黒は利休、ためは元伯」「挽ため(大一対) 利休形、千家所持は元伯は書付、極詰と表にあり、蓋裏に判あり、如心斎写五十宗哲箱に二つ入」「雪吹 大小共黒は利休形、ためは元伯、金のひなたにて菊桐を甲に書たるは大小とも原叟このみ、跡先分ちかたきゆへ雪吹と云ふ」「面中次 黒は利休、ためは元伯、何れも中ばかりなり、ため中次に元伯書にて詩を書たるを詩中次と云ふ、原叟写しあり、如心斎又数五十を製す」「薬器 利休形、他仙叟好は蓋河太郎」「頭切 如心斎このみ黒杉の木地、すりうるしにて桐を書たるは了々斎このみい」「南瓜 山中宗有遺愛の桜樹を以て、其子宗智、天然に茶器の好を頼れしに、夢中にあこた瓜の形を得て此器をこのみしが、細工成就せざる内に天然卒す、故に天然の書付なし、身は内黒、外ため、蓋は木地」「蔦 元伯このみ、内黒、甲すりうるし、其余は木地、本歌は三井八郎右ヱ門所持」「一閑張(竹折ため) 如心斎このみ、住山取立の刻自作箱も一閑張にして茶もめんさなだひも数五十、竹は蓋の見返に判あり、折ためは底に判あり、竹をほうしと云ひ、折ためをかつらおけ云しを、今にては竹の茶器折ための茶器と云ふ」とあります。

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