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乾山水指

仁清 乾山 空中

乾山銹絵染付流水文手桶水指 逸翁美術館蔵

乾山(けんざん)は、尾形乾山(おがた けんざん)といい、寛文三年(1663)京都生、寛保三年(1743)江戸没、江戸時代中期に活躍した陶工です。
乾山は、京都の富裕な呉服商「雁金屋」尾形宗謙(おがたそうけん)の三男として生まれ、初名は権平のち深省、諱は惟允、別号に霊海・紫翠・習静堂・尚古斎・陶隠など、すぐ上の兄に市之丞(いちのじょう)のちの尾形光琳(1658〜1716)がおり、二人の曽祖母にあたる初代「雁金屋」の妻が本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の姉・法秀(ほうしゅう)です。
乾山は、貞享四年(1687)二十五歳の時、父親が他界し、父の遺産を元に元禄二年(1689)洛北御室仁和寺の門前双ケ岡の麓に隠宅を構え習静堂(しゅうせいどう)と号し、このころから御室窯にいた仁清のもとで陶法を学び、元禄十二年(1699)二代目仁清(仁清嫡男安右衛門、清右衛門を襲名)から仁清の「陶法伝書」を譲られ、二条綱平公から譲り受けた鳴滝(なるたき)の山荘に仁和寺からの許可を得て窯を開き、京の乾(いぬい、西北)の方角に位置するところから乾山と名付けます。乾山窯には、清右衛門と押小路焼の陶工孫兵衛が細工人として参加しており、押小路焼の交趾釉法と仁清伝授の釉法とを合わせながら独特の作品を作り出していきますが、乾山が意匠をし、成形、施釉、焼窯などは、もっぱら孫兵衛が行い、光琳が絵付をしたものに乾山が画賛をし、「乾山」の銘を入れたといい、器形は型造りが多く、当時輸入された海外の陶磁器に意匠を求め、染付や色絵にも学び、釉下着彩(色絵下絵)も試み、絵付を生かし恰も紙や布に絵筆を走らすような味わいを出すため、器の堅牢度をあきらめ、素地の上に白泥を刷毛塗りし、その上に直接銹絵を描き、透明釉を掛けて低火度焼成した白地銹絵(さびえ)と呼ばれる雅趣に満ちたものを造り出し、これが当時流行の兆しをみせていた文人趣味に合致して人気になります。この時期のものは鳴滝乾山と呼ばれます。光琳の絵付は光琳が法橋に任じられた元禄十四年(1701)頃までと考えられ、宝永五年(1708)頃までは光琳の弟子の渡辺素信(始興)が絵付を手伝っています。
乾山は、正徳二年(1712)五十歳の頃、鳴滝泉谷の屋敷を桑原空洞へ譲渡し、二条通寺町西入ル北側に移り尚古斎を号し、三条粟田口五条坂辺で窯を借り「焼物商売」として、絵付の食器類が作られ「乾山焼」として世間に広く知られるようになります。この時期のものは丁子屋乾山とか二條乾山とか呼ばれます。
乾山は、享保十六年(1731)六十九歳の頃に輪王寺宮公寛法親王に従い江戸に下り、寛永寺(かんえいじ)領入谷(いりや)に窯を築いて晩年を送り、八十一歳で没するまで江戸に在住し、この時期のものは入谷乾山と呼ばれます。
乾山は、元文二年(1737)には下野国佐野に招かれて作陶を行い,この時期のものは佐野乾山と呼ばれます。
乾山は、乾山江戸下向の後、二代目仁清清右衛門の子で乾山の養子となった猪八(いはち)が二代目乾山を名乗り、聖護院窯を構えで乾山焼の業をつづけ、その後も何代かの乾山が出ます。また江戸入谷においても乾山は六代浦野繁吉まで続いています。
乾山の水指は、仁清に比べ数が少なく、ほぼ鳴滝時代のものと考えられており、銹絵染付流水文手桶水指(逸翁美術館蔵)、色絵槍梅文水指(京都市立芸術大学蔵)、色絵夕顔文水指、銹絵茄子文水指(根津美術館蔵)、銹絵草花波文水指(ミホミュージアム蔵)、銹絵菊図水指(ミホミュージアム蔵)などがあります。

『陶工必用』に「愚拙元禄卯之年洛西北泉渓ト申処ニ閑居候処ニテ陶器ヲ製シ始 則京城ノ西北ニ相当リ候地ニ候故陶器ノ銘ヲ乾山ト記シ出申候、其節手前ニ指置候細工人孫兵衛ト申者右押小路寺焼之親戚ニて則弟子ニ候而細工焼方等巧者ニ候故御室仁清嫡男清右衛門ト共ニ手前江相頼ミ置 此両人押小路寺内かま焼キ御室仁清焼之伝ヲ受継申候」「道具之形模様等ヲ私 其上同名光琳ニ相相談候而最初之絵ハ皆々光琳自筆ニ画申候 爾今絵之風流規模ハ光琳このミ置候通ヲ用又ハ私新意ヲも相交へ」とあります。
『陶器考附録』に「乾山 尾形氏、名真省、尚古と号す、陶器を製するは世の知所、西洋の風をとれり、極彩色ものヽ内にあまかわ出来の火入ふたおき鉢皿るいに乾山の名を焼付たるもの多し」とあります。

乾山銹絵染付流水文手桶水指 逸翁美術館蔵  乾山色絵槍梅文水指 京都市立芸術大学蔵  乾山色絵武蔵野図片口水指 石川県立美術館蔵
銹絵染付流水文  銹絵茄子文  色絵武蔵野図
乾山銹絵茄子文水指 根津美術館蔵  乾山銹絵草花波文水指 ミホミュージアム蔵  乾山銹絵菊図水指 ミホミュージアム蔵
銹絵茄子文  銹絵草花波文  銹絵菊図

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