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空中水指

仁清 乾山 空中

空中信楽芋頭水指 湯木美術館蔵

空中(くうちゆう)は、本阿弥光甫(ほんあみこうほ)といい、慶長六年(1601)生、天和二年(1682)歿、空中斎(くうちゆうさい)と号し、空中として知られる、江戸時代前期の工芸家です。
空中は、本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ、1558〜1637)の従弟で養嗣子光瑳(こうさ、1578〜1637)の嫡男で、本阿弥家の家業である刀の磨礪・浄拭・鑑定の三事に秀で、寛永十八年(1641)法眼に叙せられ、加賀前田家からは三百石の禄を受けています。かたわら祖父光悦に倣って香や茶の湯を好み、作陶、書画、彫刻などを善くしたといいます。 また空中は、光悦、光瑳とともに鷹ヶ峯にも屋敷を構えており、光悦の生涯を中心とする本阿弥家の家記『本阿弥行状記』三巻本のうち光悦について記した上巻は光甫の作とされます。
空中は、祖父光悦が樂家二代常慶(じょうけい、1561〜1635)、三代道入(どうにゅう、1599〜1656)に教えを受け、樂家の窯で焼かれた茶碗がほとんどなのに対し、光甫は茶碗・水指・香合・花入など多様で、また楽焼のみならず、後世「空中信楽」(くうちゅうしがらき)と呼ばれる、小石や砂混じりの目の粗い土を使い比較的高い温度で焼き上げた、信楽風の焼締陶を多く作っています。
空中の水指は、胴を箆で皮をむくように帯を削り出した「信楽芋頭水指」(湯来美術館蔵)、胴に桐の文を釘彫した「信楽桐文水指」、伊賀の破袋風の「耳付水指銘園城寺」などがあります。

『本阿弥行状記』に「今の吉兵衛は至て樂の妙手なり。我等は吉兵衛に樂等の伝を譲り得て、慰に焼く事なり。後代吉兵衛が作は重宝すべし、しかれど当代は先代よりも不如意の様子也。惣て名人は皆貧なるものぞかし」とあります。
『本朝画纂』に「本阿弥光甫 始称次郎三郎、光瑳男、光悦孫、号空中斎、嗜茶事、善書画、其筆蹟尤少」とあります。
『瓢翁夜話』に「古信楽といふうものは、弘安年間製せし所のものにて、極疎末なる種壷類に過ぎざりき、其後点茶の宗匠紹鴎、利休、宗旦、遠州など、工人に命じてつくらしめしより、これらの人の名の冠らせて称美せらる。この外空中信楽、仁清信楽などいふものあり、是又空中、仁清が信楽の土を以て諸器を製せしよりの名なり」とあります。
『雲州蔵帳』に「空中芋頭、伏見屋、金百両」とあります。
『陶器考附録』に「空中 本阿弥光悦の男、法眼に除す、公甫と云、自ら陶器を作る、世上に知さる分左に記。一、肩衝茶入 肩に細きすぢ数々あり、水薬一面に吹、地薬しぶ、上薬浅黄。一、萩写茶碗、白鼠土、鼠薬。一、志野写、同、同土、同薬。」とあります。
『本朝陶器考証』に「空中惣体作造もよく一品の物なり、薬薄黄色浅黄白薬渋薬瀬戸薬等あり、土も細かく空中彫銘あり、土の荒き空中は大方贋物なり、押小路、冨小路東へ入あふみ屋六左衛門と云者の作なり、明和のころの人なり、亀香合、長角さんぶた香合、其外水指茶碗色々あり」とあります。
『工芸鏡』に「本阿弥光甫 光甫は本阿弥光瑳の子にして号を空中斎といふ、刀剣鑑定磨礪浄拭の家業に長ぜしのみならず祖父光悦の風ありて茶香を嗜み丹青をよくし、兼て巧に陶器をつくれり、陶器は重に赤楽焼なりが、また信楽の工をもよくせり、世これを空中信楽と称す、この人はじめ法橋に叙せられ後法眼に陞せ叙せらる、天和四年七月廿四日没す、年八十二、光甫八男あり、長を光傳といひ、李を光通といふ」とあります。
『工芸志料』に「空中楽焼は楽焼の一種なり、寛永正保年間京師の人本阿弥空中といふ者之を造る、空中は光悦の孫なり、其の祖父光悦の造るものと大同小異なり、亦皆赤色にして黒色のものなし、又傍ら信楽焼の功ち能くす、是を世に空中信楽といふ、其の制作光悦に劣らず」とあります。

空中信楽芋頭水指  空中信楽桐文水指  空中耳付水指 銘園城寺
信楽芋頭  信楽桐文  園城寺

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