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阿弥陀堂釜

阿弥陀堂釜

阿弥陀堂釜(あみだどうがま)は、茶の湯釜の形状のひとつで、口造りは繰口、やや撫肩で、肩から胴にかかる境に鬼面の鐶付が付き、胴が毛切まで直線的にわずかに広がった形の釜です。
阿弥陀堂釜は、利休好みによって与次郎が作り始めたといわれ、大中小とあり、与次郎の弟子の弥四郎、藤左衛門をはじめ京釜師による写しが江戸時代を通じてあり、利休好みの釜としては最も残っているといいます。
阿弥陀堂釜は、有馬阿弥陀堂で利休が秀吉に茶を点てたときに使ったことからこの名が付いたとも、蘭若院阿弥陀坊の住職の猪首の大きな顔を見て千利休に命じ和尚の頭の形に似せて作ったからとも、釜を阿弥陀堂に贈ったことからとも種々の説がありますが、表千家四世逢源斎江岑宗左の著した父宗旦の聞書に、摂津有馬の阿弥陀堂住の僧が大きな釜が欲しいと利休宅に出入りする物読みの在俗僧を通じて依頼された利休が、切紙をもって与二郎に申付けたところ、出来上がった釜が思いのほか見事だったので自分で所持し、次の釜を阿弥陀堂の僧に遣わし、阿弥陀堂の僧が依頼してできた釜なので阿弥陀堂と名付けたとあります。

寛文三年(1663)『逢源斎夏書』に「一、阿弥陀堂釜、有馬ノ阿弥陀堂ノ坊、大釜望申。宗易所持よみいたし申俗ノ坊主御座候を阿弥陀堂ノ坊主頼候て、易へ申候へハ、紙形切て与二郎二申付られ候。扨与二郎出来候て持参致候へハ、事外見事出来候故、易所持二候。それニ而茶之湯致被申候へハ、其時分諸大名衆、此阿弥陀堂釜を写給候へと諸人被申候てはやり申候。阿弥陀堂望候釜名を阿弥陀堂と付申候。初ノ釜与二郎二申付候時、易被申候ハ、地をくわつくわつとあらし候へと被申付候、其時宗旦年十一二而そばにい候て覚申由被申候、しりばりハ地あいけつかう二候故、あらし候へと被申付候。右物よミノ坊主ハ 宗旦なと又ハ余孫共ニモよミ物をおしゆる坊主二候。扨釜其次二いさせ候て、阿弥(陀)堂へハ遺候。右ノ易所持ハ細川三斎殿二在之。今其(未)在之候。阿弥陀堂釜ノ事、世上二然と様子不存。色々取沙汰申事、此儀旦切々御雑談二而承及候。此義かきらすゆ(ら)い咄皆世上ノ相違申事也」とあります。
貞享三年(1686)刊『雍州府志』に「曾豊臣秀吉公浴有馬温泉千利休従之、於阿弥陀堂庭構茶亭、秀吉公来臨斯亭、利休煮湯点茶而献之、其所用之釜形状相宜、茶人甚慕利休、模此釜而所鋳者、不論新旧号阿弥陀堂釜、今京師釜彌右衛門、并孫三郎等代代為巧手、釜鐺類悉鋳之」とあります。
元文五年(1740)『茶湯古事談』に「秀吉公有馬御入湯の節、かの地阿弥陀堂の庭に、利休小座敷をかまへて、御成有し、其日の釜の形、甚宜しく、秀吉公も御ほめ有、後々茶人共も称美しぬるゆへに、あミた堂と名付し、それを似せて鋳させしをバ皆々あミた堂といひしとなん」「細川三斎、或時阿弥陀堂の釜口広きと狭きと二つ探出し、利休にいつれかあみた堂の本形にやとたつねられたりしに、此口の広きか本形にてこそ侯へといふ、三斎口の広きハ広過て結句かつこう(格好)いかゝなり、せまきかたかみ(見)よきにあらすやといはる、利休いや々々せまきハよろしからす、口の広きか今少し狭くハなほよからん物をと思ふ程、口の広きか私所持の「阿ミた堂の」本形にこそ御座侯へ、但し瀬田掃部殿ハ口の狭きを好まれし程に、大方これハ瀬田殿の鋳させられし釜ならんと云し故、後日にたつねられしに、正忠の好ミの釜なりしとなん」とあります。
寛政八〜十年(1796〜1798)刊『摂津名所図会』巻九蘭若院阿弥陀坊に「古釜 銘阿弥陀堂と号す。秀吉公当院に遊び給ふ時、住職澄西和尚の形容異体にして、顔大きく猪頸なり。利休に命じ、葦屋の鋳物師を召して、澄西和尚が首の形に釜を鋳さしめ給ふ。利休これを銘して猪首釜と称し、又阿弥陀堂釜とも銘す。今に当院に伝来せり。世に阿弥陀堂と銘する釜は、当院の釜を模範とするなり」とあります。
文化十三年(1816)『茶道筌蹄』に「阿弥陀堂 利休このカマの大の方を有馬阿弥陀房へつかはす、丸釜、シリ張、阿弥陀堂の三品大中小あれども大小をよしとす」「原叟好アミダ同 小阿弥陀堂に千家所持布団カマの蓋を兼用するなり、浄味作」とあります。
『名物釜所持名寄』に「阿弥陀堂、雲龍、四方釜 与二郎作」、彌四郎作「一阿弥陀堂釜 細川三斎ヨリ 後藤三右衛門 萩原殿所持」「一阿弥陀堂 箱宗旦書付 岸部藤右衛門 表具師宗務所持」「一小阿弥陀堂釜 銘善光寺 九文字屋吉左衛門」「一阿弥陀堂釜 千宗守 寺田嘉兵衛」、藤左衛門作「一中阿弥陀堂 千宗室 高宮庄右衛門」、與次郎作「一阿弥陀堂釜 宗旦箱書付在 岸部屋吉右衛門」とあります。

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