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手取釜
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手取釜(てどりがま)は、茶の湯釜の形状のひとつで、注口があり、常張鐶付に弦の付いた形の釜です。
手取釜は、三足が付いたものもあります。
手取釜は、弦が付いてすぐ手に取ることができるところからこの名があるといいます。
手取釜は、現在の鉄瓶の祖形です。
手取釜は、名物釜では、天明作があります。
『茶具備討集』に「手取 土瓶也、必有口」とあります。
『名物釜所持名寄』天明関東上作に「一手捕釜 宗旦狂歌 手捕釜己は口がさし出たぞ我侘好と人に語るな 桑名」とあります。
『茶話指月集』に「山科のほとりに、へちかんといへる侘びありしが、常に手取りの釜一つにて,朝毎糝(みそうづ)といふ物をしたため食し、終わりて砂にてみがき、清水の流れを汲みいれ、茶を楽しむこと久し。一首の狂歌をよみける。手どりめよ、おのれは口がさし出たぞ、増水たくと、人にかたるな。ある時、利休、日比聞きおよびたる侘び也。たずねてみんとて、これかれ伴いまいられたれば、へちかんが家の外面に石井あり。休、人馬の軽塵いぶせかりけるを見て、此の水にて、茶は飲まれず。各々いざ帰らんといいて、やや過ぐるを、へちかん聞きつけ、表に出てよびかけ、茶の水は筧て取るが、それでもお帰りあるかという。休、その外の人々、それならばとて立ちかえり、茶事こころよく時をうつされけるとなん」とあります。
『茶湯古事談』に「丿貫といひし者、京の佗人なりしか、数寄道の達人にて異様なる事のみせし、医師古道三と無二の友なりし、或時道三考へて、丿貫の貫の字を桓の字にかへられし、子細は桓の字は木篇に作りは一日一と書り、作りの上の一字を取て木へんの中に入れは、本の字に成也、其本の字を旦の又中へ入れは、三字を分たる時は日本一と云字也、丿の字は人の半分也、然れはヘチクワンは人半分の日本一と云心なりとそ、此丿桓か異風の作意は、根元得道の上からなれは、異にして異ならす、今の世迄も規範と成事多し、葉茶壷を昔より床の真中にかさりしを、或時丿桓か潜り口にかさりし事なと有し、山科に居し比は常に手取の釜一つにて朝毎に糝と云物を煮て食し、終りて砂にてみかき、山水の流を汲て湯をわかし、茶をたのしみしか、一首の狂歌をよみし、手とりめよおのれは口かさし出たそ増水たくと人にかたるな、或時利休日比聞及し者なり、尋んとて彼是伴ひ行しか、丿桓か家の外に石井有、直に海道にて人馬の塵埃のいふせかりしをみて、此水にては茶はのまれす、各いさ帰らんといひしを丿桓聞付、表へ出て呼かへし、茶の水は筧にて取か夫ても御帰有かといふ、利休其外の人々、それならはとて立かへり、面白く語り、茶をのみ、夫よりしたしかりしとなん」とあります。
『茶道筌蹄』に「粟田口善法 無伝、侘茶人也、手取釜にて一生を楽む、手とり釜おのれは口がさし出たり、雑水たくと人にかたるな」とあります。
『長闇堂記』に「粟田口の道善と云道心者の侘数奇有、手取なへ只ひとつを持て、常はこなかけみそをして、其なかを前なる川にてあらひ、茶の湯をわかし、数奇せしもの也、京へ鉢に出るにも、戸をかためす、心のたけきものなり、又、三井寺の麓にわひすきの道清といふもの有、信楽壷の六斤計も入を負て、宇治へ茶時分には行て、茶もらい帰りて、数奇せしもの也、大津衆かたられしは、京より茶のみに来る人あれは、のそきみて、肩衣十徳なきものには出あわぬ由もうされし、某ふとおもひより、行みれは、先以、其寺見事にしてさひけなく、戸口は鎖きひしくおろせり、只そのしかた何もしらぬつくり物とみへ、興さめかへりしなり」とあります。
『続近世畸人伝』「善輔(一作善法又善浦とも有り)は、粟田口に住む隠者也。其居は土間に炉をひらき、円座を敷て賓主の座をわかち、十能に炭をすくひて、そのまゝ炉に投ず、往来の馬士驕夫に茶をあたへ、物がたりせしめてたのしみ、昼夜のわかちなき人なり。糧つくれば、一瓢をならして人の施を乞ふ。皆其人がらを知りて、金銭米布をめぐむに、其ものゝある間は、家を出る事なし。炉にかくる所手取釜といふものにて、是にて飯を炊き、又湯をわかして、茶を喫す。其湯の沸時は、彷彿松濤声、昔日高遠幽邃趣と吟じて独笑す。手取釜おのれは口がさし出たぞ雑水たくと人にかたるな、と戯れし事もあり。豊太閤そのことを伝へきゝ給ひて、其手取釜を得て茶燕せよ、と利休に命ぜられければ、休すなはちゆきて、しかじかの御命の旨を伝ふるに、善輔聞くとひとしく色を損じ、此釜を奉ればあとに代りなし、よしなき釜故に、とかく物いはるゝも亦おもひの外なりと、やがて其釜を石に投じて打砕き、あらむつかしあみだが峰の影法師、とつぶやきたり。蒿蹊按、あみだが峰、古歌によめるは東南渋谷なれども、此粟田山にも此名をよびて、享保のころまでは茶毘所ありしに思へば、南のあみだがみねの下は鳥部野にて、もとの葬所なれば、のちに粟田にうつしたるにやあらむ。利休もあきれていはむかたなく、豊太閤は短慮におはしませば、いかゞあらむとおもひ煩へど、すべきやうもなければ、ありのまゝに申しけるに、かへりてみけしきよく、その善輔は真の道人なり。かれがもてるものを召しは我ひがごとぞ、とおほせて、そのころ伊勢阿野の津に越後といふ名誉の鋳物師あるに命じて、利休居士が見しまゝに、二つうつさせて、一つは善輔に、かの破たるつくのひとて賜ひ、一つは御物となる。善輔歿して後、その釜、粟田口の良恩寺に収まれり。其図左のごとし。(図略)またその手取釜の添文とてあり。手取釜并鉤、箱入鎖迄入念到来悦思召候。尚山中橘内木下半介可申也。 十月十一日 太閤御朱印 田中兵部大輔。花?云、田中兵部大輔は、その比の諸侯也。越後に御命を伝へて鋳させたる人ならむ。是は其時の御使番、山中、木下よりの清書也。別に持たる人の意にて、此善輔が釜の此寺にあるによりて、寄附したるならむか、善輔にはあづからざるもの也。彼太閤の御物は、或る大国の侯の御家に伝るとぞ。又細川玄旨法印も、此釜をうつせと阿野越後に仰られしに、御所の思召にてたゞ二つ鋳たる事に侍らへば、又同じ形に鋳候はむことは憚ありと辞しければ、理也とてざれ歌をよみて、さらば是を其釜に鋳付よ。これ同じものならぬ証拠也と仰しかば、やがて鋳てまゐらせけるとぞ。其ざれ歌は、手とり釜うぬが口よりさしいでゝこれは似せじやと人にかたるな、此釜、今も細川家に伝ふるよし也。又云、もとの手取釜の歌は、或説には堺の一路庵がよみしとも、又道六といふ人のよみしともいへど、此玄旨法印のうつしの戯歌にてみれば、善輔がよみしに疑なかるべし。蒿蹊評云、善輔茶を翫んで茶匠の窟に不落は陸羽盧同に勝れり。馬士驕夫をいとはず茶をあたへ物語せしむるは、宇治の亜相に似たり。しかも時の威権に屈せざるの一条は甚難して甚危し。幸にして免たるは天歟、そもそも無我の所以無敵歟。」とあります。
『堺鑑』に「一路居士 一路は一休と同時の人也、或時一休和尚一路に問曰、万法有路如何是一路、一路答曰、万事皆可休如何是一休、一路は作詩詠歌真の隠逸也、狂歌に、手捕めよおのれはくちがさしでたぞ ぞうすいたくと人にかたるな、今、石津の上市村の辺、一路庵の跡有、世の人堺の内と思るによりて爰に載侍、泉州の事跡は事多ければ略しぬ、後人和泉一州の事を記し侍人もや有らん、手捕とは手捕鍋と云、釜一つを楽、此所に居住して人の往来を絶し、一の簀を下て志有人に食物を受け朝暮送りしとぞ、或時童共馬糞馬の沓鞋など入て置ければ、其を見て最早世は末に成たるとて、其より断食して終られけるとぞ申伝、品は替共真の隠者也、伯夷叔斎ともいひつべし、其誰の氏の子と云事を知ぬぞ怨く、其身はかく有しかども其名は今に留りて其所を一路山と名付て世の人普不知と云事なし、手捕鍋今は細川殿に有由申伝り、昔作る詩に曰、節後黄花吹不飛 籬根臥雨似薔薇 萬年峯頂新長老 咲下禅牀對布衣、其此の五山の名僧達各贈答の詩有」、寛政8年(1796)刊『和泉名所図会』に「一路山禅海寺 石津の上方市村にあり、禅宗、京師大徳寺の末派也。 開基一路居士 原洛西仁和寺一代の御門主たり、世を遁れてこゝに幽棲し、詩歌を吟し、清貧を楽しむ。月やみん月には見へすなからへてうき世をめくる影もはつかし 一路居士、世をしのふいほりの朽ぬればいきても苔の下にこそすめ 同。一休同時の人也、ある時、一休和尚、一路に問曰、万法有道如何是一路、答曰、万事可休如何是一休。一路居士 つねに半升鐺内に菜蔬を煮て、范冉が釜魚を楽めり、其狂歌に曰、手とり鍋おのれは口がさしでたぞ雑炊焼と人にかたるな。此鍋、細川の重器となつて、今にあり、又ある時、詩を賦して曰、節後黄花吹不飛 籬根臥雨似薔薇 萬年峯頂新長老 咲下禅牀對布衣。畚懸松 当寺にあり、一路居士、此所に閑居して、人の往来を絶し、一ッの畚を此松枝より下し、志ある人に食物を受て、露命をつなぎ給ひける、或る時、里の童ども、馬糞、牛の鞋など入れて置けれは、居士、それを見て、最早、我が糧尽たりとて、是より、断食して終り給ひける也、真に大隠にして、観念の窓には空門を守り、看経の臺には明月を照し、履は階前の草を帯、衣は戸外の塵なし、晋の恵遠法師、三十餘年山を出ず。俗塵に交る事を禁しけるも、同日の論也。」とあります。
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