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萩水指

萩編笠水指 銘「滝津瀬」

道安所持 萩肩衝水指 藤田美術館蔵

萩焼(はぎやき)は、長門国(山口県)萩周辺で焼かれる陶器の通称です。
萩焼は、ほとんどの場合、絵付けは行われず、大道土、金峯土を基本に、そこに見島土や地土と呼ばれる地元の土を配合して作られた胎土と、藁灰を多く配合しこってりと白濁した白萩釉、白萩釉よりも藁灰の量が少なく釉の厚い部分は白濁し薄い部分は透明に近くなる萩釉などの釉薬のかけ具合、へら目などとともに、登窯を使用した窯変による形成が特徴で、焼き締まりの少ない柔らかな土味と高い吸水性により萩焼の胎土には浸透性があり、使い込むにつれて茶が染み込み、茶碗の色合いが変わるのを「茶馴れ」といい、色つやが時代とともに微妙に変化するため「萩の七化け」と称し珍重されます。
萩焼は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592〜1598)で、毛利輝元が李朝の陶工李勺光(りしゃっこう)、李敬(りけい)の兄弟を伴って帰国し、慶長九年(1604)輝元の萩入府に伴い広島から萩に移り、松本中之倉に屋敷を拝領し、薪山として鼓ケ嶽(唐人山)を与えられ、窯薪山御用焼物所ができたことに始まります。これを「松本焼」と呼びます。
一説では、李勺光は秀吉の命令で大阪へ連れてこられ輝元に預けられ、その後慶長の役で弟の李敬を連れて帰ったとも、季勺光と季敬は兄弟ではないとの説もあります。
萩焼は、季勺光の死後、季勺光の子、山村新兵衛光政(松庵)が寛永二年(1625)に毛利秀就より「作之允」に任命され「窯薪山御用焼物所惣都合」を命じられ、坂助八と名乗っていた李敬も同年「坂高麗左衛門」(さかこうらいざえもん)名を受けます。
萩焼は、明暦三年(1657)松庵の子、山村平四郎光俊が三之瀬焼物所惣都合〆となり、大津郡深川村ふかわ三ノ瀬に「三ノ瀬焼物所」を開設します。これを「深川焼」あるいは「三ノ瀬焼」と呼びます。深川では御用窯ながら自家販売が認められ、元禄六年(1693)には庄屋の支配に変わり民窯としての性格が強くなります。 深川焼には、山村平四郎光俊の系譜で現在十五代に至る坂倉新兵衛(さかくらしんべえ)の「坂倉新兵衛窯」、山村平四郎光俊の六代目坂倉五郎左衛門の子、善兵衛が坂田姓に改姓し十四代に至る「坂田窯」、焼物所の職人赤川助左衛門の系譜が十三代に至る田原陶兵衛(たはらとうべえ)の「田原陶兵衛窯」、赤川助右衛門の系譜で十一代の時に赤川姓から新庄姓に改姓し十四代に至る「新庄窯」の四窯があります。十二代新兵衛は人間国宝となっています。
萩焼は、寛永三年(1663)二代藩主綱広が、三輪忠兵衛利定と佐伯半六実清を御雇細工人として召し抱え、無田ケ原で御用窯をつとめたのが「三輪窯」で、初代休雪は元禄十三年(1700)藩命で京都の楽一入について楽焼の修業をし、四代休雪も永享元年(1744)楽焼の修行を命じられ、それまで李朝の影響の強かった萩焼の和風化が進められました。十代休雪(休和:1896〜1981)、十一代休雪(1910〜)は人間国宝となっています。
萩焼の「一楽、二萩、三唐津」の語は、昭和七年(1932)小野賢一郎編纂『陶器全集』第14巻が初出といいます。
萩水指は、茶碗を主としていた萩焼においてはごく稀ですが、藤田美術館所蔵の道安所持の萩肩衝水指があり、箱蓋裏に「此萩焼之水指千道安所持之道具也 木村紹味道安門弟ニて 被申請候後蓋破申候ヲ 捨被申候故 後ニ萩へ遣取合置被申候 我等此事存候之故事付置申候也 庸軒」と藤村庸軒の書付があります。
萩水指は、本来は深鉢であったものを見立てて水指としたものに、萩編笠水指銘「滝津瀬」(たきつせ)があります。編笠状の姿で、口造は口縁の一部に土切れのあるべベラとなっており、腰に強いカンナ跡が廻り、胎土の赤土の上に土灰釉を掛け、その上に掛けた藁白釉が飛瀑のようにナダレが走っています。

『陶器考』に「一、松本萩は土和かく薬すけ通らす音和かなり、呂宋は土白して薬につやあり、蛇かつ又はしふ出つやつよく音きん々たり、丹波出来に松本に似たるものあり黄土なり」「一、萩の内にそとにへらにて彫ものある白鼠色薬の茶わん、萩にあらす福州出来なり」「一、松本萩の内くわんにう細かく色紫色の出たる白土の茶わん香炉俵鉢等あり、音かたく萩にあらす、舟山白磁なり」「一、福州黄磁(図)形の花生の外の紋に合ふ萩の茶わんを熟覧するに、土薬舟山井戸と同手なり、其余福州舟山相似たるを以て合して是を出す、すへて薬二重か丶りなり、萩は一重薬なり、故に石はせの所中の土を顕す、福州舟山は二重薬ゆえ、石はせありても下の薬は切れて上薬にて包むゆへ土を顕はさす、惣体小石ましりの土也」とあります。
『陶器考附録』に「長門 ○古萩窰 ○松本窰 ○深川窰 一、萩焼、高麗左衛門に始る、諸焼もの世の知る処なり。一、ぬり土と称する内に福州白磁入交る。一、萩はけ目・萩三しまと云来る内に、安南粉引手の三しま、はけ目と舟山島のもの入交る。一、松本萩の内に白土の至てよきに、薬に薄萌黄色ましり亦しふ吹たるは呂宋白磁入交る、同し内に丹波出来の黄土のもの入交る。一、古萩窰と云内に雲州焼入交る。一、深川窰と云内に無地雲鶴と呂宋もの入交る。一、赤土白薬のものに安南粉吹手もの、東京もの入交る」とあります。
『本朝陶器攷證』に「長州萩焼 一、元祖高麗左衛門と申候、朝鮮の生れ李敬と申者なりしが、朝鮮御征伐之時、道しるべを致し候所、すぐ様当国中納言の君召つれられ、日本へ渡海仕り助六と申せしが、御帰国の後、其方何業仕候哉と御尋の所、半弓を射又陶工をいたし候由を申上る。御悦少なからず、長く我国の宝にておはすれとて、長門の松本と云所へ、家屋敷を給はり、則今以其所にて製す。追々君の御印物等拝領仕、血脈相続いたし、当時新兵衛八世に相当り申候。山号を韓峯と申、俗に唐人山と申す。右高麗左ヱ門と申は君より給りし名なり、氏は坂と申、是松本焼物本家筋に御座候。一、松本焼林家 林家元祖半六と申者、長州家中佐伯某の次男なりしが、焼物細工を好みて、坂三代目新兵衛へ神文をなし養子と相成り、夫より氏を林と改め、同国へ召抱られ、弥四郎と申者より四代に相当り、泥平と申者落度有之、知行召上られ其以降絶家。一、同三輪家 此元祖弥兵衛と申者、大和国三輪の者なりしが、元禄年中長門へまかり越し常に楽焼いたせしが、是も亦召抱られたりしが、二代目弥平と申者、上様より思召の旨有之坂氏へ神文し養子と相成り、当代源太左ヱ門と申す。右両家とも唐人血脈には無御坐候。嘉永元年申四月 坂新兵衛 翫土斎。一、深川焼之事 元来高麗左ヱ門養子にして山村松庵と申候、茶入師に同国へ召抱られ深川へ引越、其後故有て知行めし上らる、当時深川焼之義は、坂の養子内坂倉万助と申者焼立当代善右ヱ門と申也。一、長州萩焼再答 萩松本元祖高麗左ヱ門道忠朝鮮にては李敬と云、渡海の節船中にて助八と改め、其後高麗左ヱ門と給ふ 二代坂助八忠李 三代坂新兵衛忠順 四代坂新兵衛方 五代坂新兵衛忠達 六代坂新兵衛忠清 七代坂助八忠之 当代坂新兵衛忠陶。一、古萩之事 古萩と云は初代より三代頃を云伝へ申候、林三輪等脇窰之義は薬立伝来差引有之候に付、現物に当り候はでは相分りがたく、松本焼と申は他国に出候てははぎ焼、国本にては松本焼と唱へ申候、松本と申は萩の内、所の小名にて候、今世しにては別窯のやうに申候得共、全私家筋の外窰所無之候。一、鬼萩之事 荒土白薬を鬼萩と申候、当時も同し事に候、土薬ともに往古より其物其品により、口伝を以相調へ来りに、倉崎某と申者、元祖の弟子内に有之、往古深川へ引越候、雲州へ参り居候倉崎権兵衛は、右倉崎の一族にて候、当時深川の倉崎は負之進と申候 嘉永二年酉四月 坂新兵衛」 「初代は高麗左ヱ門とて唐人のよし、作がら高麗物の如し、古萩といふにも色々手ありて書尽しがたし、又松本萩と云もの有、是は一手違ひ、作造りともちがひ薬も白にて、下には鼠色薬ありてぬべりとして薬奇麗なり、土は紫色なり 古萩俵手有、筆洗なりもあり、白薬にて俵の絵あるもあり」とあります。
『桂林漫録』享和三年(1803)刊に「萩焼茶碗 長州候の領内。松本村と云所にて製す。彼藩中にては松本焼と称す。陶工三軒あり。坂新兵衛。三輪十藏。林弥四郎と云。何れも高麗の種子なり。朝鮮征伐の時。檎となりて来りし者の末葉なりとぞ。今血脈にて相続せるは。坂家ばかりなりと。彼国の人に聞り。」とあります。
『有樂亭茶湯日記』慶長十七年(1612)一月十十九日朝会に「一、茶碗 長門やき」、慶長十九年(1614)六月十十六日朝会に「一、茶碗 白キ萩焼」とあります。

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