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伊賀水指

重文 古伊賀水指 銘 破袋 五島美術館蔵

伊賀焼(いがやき)は、伊賀国(三重県)阿拝郡(伊賀市)丸柱付近で焼造された陶器のことをいいます。
伊賀は、古くから雑器類が生産されていたことが知られており、丸柱窯は天平宝字年間(757〜764)に興るとする説もあります。
茶陶としての伊賀焼は、天正十二年(1584)古田織部の弟子であった筒井定次(つつい さだつぐ)が伊賀領主となったとき、槙山窯と丸柱窯、上野城内の御用窯などで茶陶を焼かせたとされ、これを「筒井伊賀」と呼びます。
伊賀は、慶長十三年(1608)筒井定次が改易となり、藤堂高虎が伊賀国主となり、二代藤堂高次のとき、寛永十二年(1635)京都から陶工を招き茶陶を焼かせ、これを「藤堂伊賀」「御蔵焼」と呼びます。
この時代の伊賀焼は、一般に古伊賀といわれます。
古伊賀は、俗に「伊賀に耳あり、信楽に耳なし」といわれるように、耳が付き、箆目が立ち、また一旦整った形を崩した破調の美が特徴とされます。
古伊賀は、無釉で耐火度が高い長石の混じった土を高温で焼成するため、土の成分が融け出た所に松の灰がかかり自然釉(ビ―ドロ釉)や、強く艶のある「火色」、灰が積もり燻って褐色になった「焦げ」が出現します。
伊賀は、寛永年間(1624〜1644)藤堂高虎の娘婿の小堀遠州の指示によってつくられたものを「遠州伊賀」といい、「筒井伊賀」とは対称的に薄造りで瀟洒な茶器です。
伊賀は、寛文九年(1669)「御留山の制」が設けられ、このため陶工は信楽に去り、伊賀焼は衰退します。
伊賀は、その後七代藤堂高豊の宝暦年間(1751〜1764)に丸柱窯が再興され、これを「再興伊賀」と呼びます。再興伊賀以降は、茶陶は殆ど焼かれなくなり、古伊賀と異なり、殆どが施釉で日用食器が中心となっています。
伊賀水指は、五島美術館蔵の古伊賀水指 銘「破袋」(やぶれぶくろ)が著名で、左右に長方形の耳がつき、腰が歪み大きく割れた姿で、正面にビードロ釉が厚く掛かり、器全体に窯の中の灰や土が付着しています。古田織部の添状(関東大震災で焼失)に「今後是程のもなく候」とあったといいます。

『三国地誌』宝暦十三年(1763)刊に「瓷器(やきもの) 丸柱村製 按伊賀焼と云是なり、古本邑と槙山村より出す、茶壷、水指、茶入、茶碗、花瓶、酒瓶の類なり、茶道を嗜む者愛玩す、又槙山釜と称する者あり、又山道手と云ものあり、筒井定次の時焼、又あした焼と云ものあり、是等を皆古伊賀と称す、大抵江州信楽焼に類す、先君大通廟の時、命て水指を造らしむ、其製間(閑)雅なるを以抑(柳)営の御物となる、自余皆君家の宝庫に蔵む、是を御家竈とも亦手入徳利とも云」とあります。
『雲根志』に「焼物楽石 前篇に詳なり、又伊賀国阿拝郡石川村の山中にあり性質柔にして石の如く土のことし、色白く光沢ありて美なり、むかし同郡丸柱村白土山にて陶を作る、世に古伊賀と称するものこれなり、後世此所を禁せられて、外なる山にて今に至つて器物を焼、古今ともこの薬石を用ゆ、讃州陶村に出す焼物薬とは大に異なる」とあります。
『藤堂家旧蔵記録』(『伊賀及信楽』所収)に「大通院様御代、寛永十二年乙亥の春、伊州丸柱村之水指、御物好に而焼せられ京三条の陶工、孫兵衛、伝蔵、両人雇ひ呼寄、所之者火加減を習ひ候由、其節凡百三十三出来して東府へ送る由、右之者永蔵の古書之内に在之。一、翌寛永十三子年正月、大通院様、伊州被遊御越候節、右丸柱村之焼物之仕様被遊御覧候義有之、此一条は加納義左衛門延宝之由緒書ニ在之」「喜田村道蔵より之書 寛文九己酉年伊賀国丸柱白土山七月十二日、右上包に御武具方より之書付と有之、御状致拝見候処、丸柱古窯之土を以て水指等為御焼被遊、御蔵に右之土をも御貯蔵被成侯、而右之山留山に被仰付候、大通院様了義院様御代之内と思召候得共、区々に而右御両院様の内どなた様の御代に候哉、旧記等相調可申旨、尤水指等為御焼被成候は大通院様の御代に御留山に被仰付候は了義院様御代杯と申儀に而も可有之哉、右等之趣相調可申旨被仰出候、委奉敬取即御永蔵に有之候、古書共早々吟味に取懸り候得共数多く古書共愈々とは難相知候与得相考重々致吟味以上可申上侯」とあります。
『陶器考』に「一、立鞁形に長き耳のつきたる水指に七宝つなきを三所をしたる水指あり、同薬土なり、作の約束呂宋なり、是らも海外へ渡りて焼たる品とみゆ、いつれも時代ありといへとも焼おろしの如し、世上に伊賀こし土と称する手なり」とあります。
『陶器考附録』に「伊賀 一、伊賀焼は呂宋及南蛮国々の風を写す、諸焼物世人是を知る。一、新次郎作の茶入は新の字と新二郎の彫名有、世人新の字あるを新兵衛作と云誤れり。一、同人作の茶わん浅黄薬に高台上より高たい内白茶薬又は浅黄薬にて小くわんいう上作なり、世人これを萩の高らい左衛門と見違来る。一、呂宋ふゆかん窰の雨もれ堅手、伊賀のこげ薬のものとよく似たり、見分へし。一、同手の御所丸沓を伊賀沓と云、よく似たる故なり。一、こし土と云ものに呂宋もの多し、土こまかにして、つやつよく、音かたきもの是なり。一、伊賀と呂宋との違は、伊賀は、小くわんにうにて、音やわらかにして、つやうすし、呂宋は、くわんにうあらく、音かたく、つやつよし。」とあります。
『本朝陶器攷證』に「伊賀国陶器 津藩前老職山中某隠居して幽翁と号す、微行して玄甲舎へも茶に来訪ありしちなみにて尋もらひしに、ふるき事は不分明のよし、左之通申来る。伊賀燒古事之儀相調べ候處、往古之伝来難相分、窰元之方、重に相しらべ候得共、一切古書留書等残り申さず、尤往古よりは、三度程も中絶に及び候やう申伝候、然るに寛永十二亥年、領主より世話有之、京都陶工孫兵衛伝蔵さし加へられ、君命にて水指数百三十三焼候て秘蔵に相成申候、其時節よりは、しかと連綿いたし、今に折々用向等申付られ候、丸柱村窰元職方等、夫々先達而以来、精々相調候得共、何分右之通、寛永より二百年来之義ならでは相分り申さず候」「右伊賀は昔より賞くわんす、瓢箪水さし花入なり、土こまかく至てかたし、地土薄赤み白き所もあり、青薬こげあり、こげ沢山あるを賞翫す、伽羅香合茶盌沓鉢などは古く是あり、されどこげは出ず、沓鉢には黒薬口細も有、一面に薄黄色薬かヽる、是等は只伊賀とのみ云、其他、藤堂伊賀、御蔵伊賀と云物あり、是は時代若く用ひざる物なり」とあります。
『観古図説』に「伊賀焼は、信楽焼と其地方隣接して僅に一里十五町にして其間十八町南へ下る坂あるのみ、故にほヽ製并に質も同うして、全く我国固有の手づくね勝ちの壺にて、又ろくろを以て造る物もあり、土の色は白く質は同うして小石少々交れり、質は荒目なり、然れども信楽土よりは細かなり、目方は稍重し、地薬の吹出せる物も見ゆ、時代は伊部焼と同うして一千有余年の昔しより有りと思へとも、伊賀の山皿と云堀出せし品を見れは、はるか前より作るなり、尓後凡そ二百年を歴て硝子薬を懸けたり、尤も古き物にはさか薬にて下駄をこしと思はる、後二百年を歴て花生水指様の形ちの物を造り出せり、色質とも前に同じ、尤硝子薬りを懸けたり、之を今世に古伊賀と云ふ、手づくねなる物多し、旋盤を用ゆると雖も手の工と機械と相半はせり、今世に紹鴎信楽と云ふ物に全く製作ふり同し(茶道筌蹄に云く、伊賀焼は新二郎の作もあり、信楽伊賀とも古きは花生水指に限る、茶入は利休時代より古きなし)、此利休時代より始る茶入と云者は黒薬飴薬共色合ほヽ瀬戸に同し、信楽よりは土細かなる故に薬光沢多し、土の色は瀬戸と異なりて其質較粗なり、上品なる者は漉土も有るなり、遠州時代より伊賀尹部共茶盌を焼き始るなり、伊賀国藤堂の領地となれる頃に同氏の好みなるや世に藤堂伊賀と云有り、又遠州の弟子宗是の好みなる物を世に宗是伊賀と云物も有るなり」「○伊賀焼は伊賀国綾之郡丸柱と云地にて製す、伊賀の国の北西に当りて江州の堺なり○下駄起しと云は生土を以て壺を作り上け未た乾かさる前に取扱の為め其壺の底へ細き木を二本並てかひ敷にせり、故に其木土へ凹み入る、此侭乾して竈へ入れて焼くを以て二本の木焼けて灰となり其跡に二つの溝出来る、其形ち恰も下駄の歯に似たらは是れを世に下駄起し云、此後は右二本の木の替りに焼物にて二本の木の如くかひ敷として焼上りたる時に之をれを去る故に自然に下駄の歯の如く形ち少し高く付き残れり、之も下駄起しと云ふ○新二郎は利休時代の陶工なり」とあります。
『松屋会記』寛永六年(1629)十一月十二日上五郎右衛門会に「中ヲシメタル茶ワン イカヤキ水指 メンツ 引切」、同十二月廿五日中左近会に「イカ焼水指」、同九年(1632)九月九日藤堂大学会に「トモフタ イカヤキ(水指図)」とあります。
「伊賀耳付水指 大野主馬宛古田織部筆添状」に「内々御約束之伊賀焼の水指令進入候 今後是程のもなく候間 如此候大ひゝきれ一種候か かんにん可成と存候 猶様子 御使に申渡候 恐惶謹言 霜月二日 (花押)古織部 大主馬様 人々御中」とあります。

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