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薩摩水指

薩摩色手桶形水指

薩摩(さつま)は、薩摩藩領内で朝鮮陶工の焼いた陶磁器の総称です。
薩摩焼は、文禄・慶長の役(1592〜1598)に出陣した島津義弘(しまづ よしひろ:1535〜1619)が朝鮮から連れ帰った陶工たちに開窯させたことに始まります。
薩摩焼は、薩摩の鉄分の多い土と釉薬を使い茶褐色に焼きあがる日用雑器の「黒薩摩」(黒もん)と、朝鮮から携えた白土と釉薬を用いた「火計り(ひばかり)」(火だけが薩摩の意)に始まり、のち領内に発見された白土を用い藩主専用品であった「白薩摩」(白もん)の二系統があります。
朝鮮陶工たちは、慶長三年(1598)に串木野島平、市木神之川、鹿児島前之浜に上陸したとされます。
串木野上陸の朴平意(ぼくへいい)が慶長四年(1599)串木野で最初の窯を開き、慶長八年(1603)市来に移り苗代川窯を開き、黒もんを焼いたが寛永元年(1624)白土が発見されると白もんも焼くようになります。
神之川上陸の金海(星山仲次)は義弘の居地帖佐(ちょうさ)に召出され慶長六年(1601)宇都(うと)窯を築き、慶長十二年に義弘の加治木移住に同行し御里窯を、義弘の死後十八代を継いだ家久(忠恒:1576〜1638)に召出され鹿児島の竪野に冷水窯を開き、島津家の官窯となり、慶安元年(1648)有村碗右衛門が上洛し仁清の御室窯で錦手を学び、文政十年(1827)重久元阿彌が京都の仁阿彌道八のもとで赤絵の具の上に金彩を焼き付ける手法を習い色絵に金彩が加わった薩摩錦手が確立し、慶応三年(1867)のパリ万国博覧会において注目されました。

『陶器考附録』に「薩摩 一、さつま焼年古し、同国に唐人町とて朝セン人の末一ト所に居て惣髪にて焼ものを業とす」とあります。
『本朝陶器攷證』に「古薩摩、土こまかく、鉛色にてねんばりとする、薬、薄黄色・黒薬・浅黄色・白薬もあり、蛇かつ薬あり、作も品よきものなり、小堀権十郎殿好、甫十と云瓢茶入有、茶入はあれど、茶碗水指すくなし、肥後さつまといふあり、同じ薬だちなれども、作形ともあしく用ひず」とあります。

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