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高取水指
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高取(たかとり)は、筑前(福岡県)黒田藩の御用窯で、遠州七窯のひとつとされます。
高取焼は、慶長五年(1600)黒田長政が筑前福岡に転封した時、朝鮮出兵の際に連れ帰った朝鮮韋登の陶工「八山」に命じ、鞍手郡鷹取山南山麓永満寺宅間に窯を築かせ、黒田藩「御用窯」としたのが始まりとされます。これを「永満寺宅間窯」(えいがんじたくまがま)と呼びます。このとき、八山は鷹取山に因み「高取」の姓と「八蔵」の名を賜り、高取八蔵重貞と名乗ります。
高取焼は、慶長十九年(1614)鞍手郡内ヶ磯に移り窯を開きます。これは「内ケ磯窯」(うちがそがま)と呼ばれ、このとき八蔵の子八郎右衛門も別禄を給わります。内ケ磯窯では、織部好みの沓茶碗などが焼かれています。
高取焼は、元和九年(1623)黒田長政が没すると、八蔵らが帰国を願い出たため二代藩主黒田忠之の勘気にふれ、八蔵父子は禄を召し上げられ嘉摩郡山田村に蟄居となり、そのためそこに窯を開き、日用雑器を焼きます。これは「山田窯」と呼ばれ、八蔵父子が居住したところはのちに唐人谷と呼ばれます。
高取焼は、永満寺宅間窯、内ケ磯窯、山田窯の三窯時代の品を「古高取」といい、陶質は堅硬で茶褐色釉の上に斑に黒色釉を掛け古格があり珍重されます。
高取焼は、寛永七年(1630)八蔵父子は許され、藩命により伏見に赴き小堀遠州の指導を受け、穂波郡合屋河内中村白旗山の山麓に窯を開きます。これを「臼旗山窯」(しらはたやまがま)といいます。また唐津城主寺沢氏の浪人五十嵐次左衛門を聘し瀬戸の陶法を学ばせ下釉を施すようになります。臼旗山窯では、小堀遠州好の瀟洒な茶器を多く焼かれました。そのため遠州七窯の一つに数えられ、これを「遠州高取」といいいます。
高取焼は、承応三年(1654)初代八蔵重貞が亡くなり、長男八郎右衛門が病弱のため、次男の新九郎が二代目を継ぎ八蔵貞明と号します。
高取焼は、寛文五年(1665)三代藩主黒田光之の時、朝倉郡小石原村鼓に移住し窯を開きます。これを「小石原鼓窯」(こいしはらつつみがま)といい、「小石原高取」といいます。
高取焼は、元禄元年(1688)四代藩主黒田綱政は、福岡城の南の早良郡田島村抱大鋸谷に窯を築きます。これを「大鋸谷窯」(おがやがま)といい、田島村にあった藩主別墅の名を冠し、「友泉亭御庭焼」とも呼ばれ、細工物や鉄絵を描いた「絵高取」などがあり、狩野昌運や尾形友元等の御用絵師に絵付させ、また藩主綱政みずから筆をとって茶碗に絵付を行い、あるいは素焼きの茶器を上方に送って宮崎友禅に好みの下絵を描かせたといいます。この窯は元禄十七年(1704)突然取崩されたといいます。
高取焼は、享保元年(1716)五代藩主黒田宣政は、小石原から陶工を呼び福岡城下近く早良郡麁原村抱上の山に新たに窯を開かせ、皿山奉行を小石原から移し、抹茶碗・茶入・置物などに限定し主として幕府および諸侯への贈答用に当てます。これを「東皿山窯」(ひがしさらやまがま)といいます。
高取焼は、寛保元年(1741)六代藩主黒田継高は、東皿山窯の西に窯を開き、もっぱら日用雑器を焼かせます。これは「西皿山窯」(にしさらやまがま)と呼ばれます。
高取焼は、明治四年(1871)の廃藩置県により御用窯は閉ざされますが、その後再興され、福岡市内と小石原の二カ所に数軒あります。
高取水指は、遠州好みのいわゆる「遠州高取水指」が名高く、一重口、樋口(といぐち、とよぐち)、菱、管耳など様々な姿のものがありますが、総体に薄造りで、ややひずみがある胴に細かい轆轤目、上釉の上から釉を流し掛けして景色としたものが良く知られています。
遠州所持の樋口水指は、形は一重口の筒形で胴の糸目内箱に遠州自筆で「高取 水器」と書付があります。畠山記念館蔵の月形水指は、胴を押して凹まし、口縁もゆがめて半月形としたもので、胴には糸目、白濁釉を上釉の上から流し掛けたものです。絵高取では、鉄絵網干文手付水指があり、口を菱形に作り柄を付けた桶形の水指で、淡茶色のきめの細かい素地で薄手に成形され、内外の側面には轆植目が立ち、胴に正面に干網を四本描き、これに遠く近く飛ぶ鳥が描かれています。
『陶器考』に「遠州好七窰 一、志戸呂 遠江 印有ハ若シ。一、膳所 近江 後窰印梅林。一、上野 豊前 今渡唐五左衛門。一、高取 筑前 上野焼弟子 初代六蔵八蔵。一、朝日 初代 遠州臣 窰所不定 朝日朝雲 今豊前 同新十郎。一、古曽部 摂津 初 和様印 後 八分印。一、赤膚 和州郡山 赤ハタ山土、遠州印 赤膚山 赤ハタ 文字太シ、御城付ノ品遠州箱ニ入、九ツアリ、郡代三軒ニ茶屋宗古箱入茶ワン一ツ丶所持ス、窰中絶、一、寛政中再興 五条山土 瀬戸陶工伊之助次兵衛、印 赤膚山 赤ハタ 文字細シ。見出ス品 遠州印也 一、白薬茶硫二 一、瀬戸薬水指 一、高取薬同 一、同夜学 一、香合一 一、水滴二 無印茶入二 一、彫印茶碗一。」とあります。
『陶器考附録』に「筑前 ○高取焼 遠州好七窰の内。一、高取焼初代六蔵八蔵と云二人豊前上野渡唐氏に陶を習ふ、遠州この二人に茶具を焼しむ。一、土 紫・黄・赤・白。一、薬 金気・青・白・栃・萌黄・黒鼠。一、諸焼物世人是を知る、古高取と云内に南蛮もの入交る、新焼には筑後柳川焼入交る。一、高取の外筑前焼と称するもの多し」とあります。
『取歴代記録』に「文禄元年、秀吉公朝鮮御征伐の時爲御先手、長政公御渡海被遊候節、御陣所の辺に井土と云村里有(古高麗国の内なり)、此所に居住して瓷器を製し産業とせし八山と号せし者有、如水公、長政公に奉謁、両君も其良工が事をしろし召連、御供仕日本へ可来旨被仰聞、八山も両君の御仁徳を奉慕、則御請申上、御凱旋の刻、後藤又兵衛基次に命ぜられ、八山召つれ可来由被仰付、基次我家人相山常右衛門を指添船路入事を司らしめ、八山夫婦並一子以上三人御供して渡海し、慶長五年筑前御拝領被成御入国乃節、鞍手郡鷹取乃古城山乃麓に被召置、陶器を製せしめ給ふ、鷹取に被召置し故、姓を高取と被爲改、唐名を変して名を八蔵と可改可旨承仰、一子成長して八郎右衛門と改む(鷹取山父子高取と書事高麗の流にて可用旨御意かと申伝有)、月俸七拾人扶持を給り、御国寺社乃格式に被仰付御勤申上度、此時御国内を巡見し地土薬石を撰び出し、又朝鮮より土薬を取寄、井土瓷器を製せし事あり(和に井土陶器製有事此時の事なり)」とあります。
『観古図説』に「五十嵐次左衛門と云者、肥前国唐津の寺沢家を退去し流浪して筑前国に至る、此人迫戸瓷器の法を習ひ其外種々の製を鍛錬せり、忠之(黒田候)召招へ、八蔵と同しく高取に於て瓷器を作らしむ、共に良工なり」とあります。
『瓢翁夜話』に「取燒の始は、征韓の役、K田長政に従ひで帰化せし韓人八蔵と、加藤清正に従ひて帰化せし韓人新九郎の二人にして、八蔵は新九郎の婿なりければ、長政わざわざ肥後より新九郎を呼び寄せて、陶器をこの二人に命じて造らしむ、この二人は、彼の邦に於て名高き陶工なりしとぞ、世これらの造りし品を古高取と称へて珍重せり、其の後寛永中、長政の子息忠之、八蔵及其の子(八郎右衛門)を小堀遠州の許へ遣はし、其の教を受けしむ、これより高取焼の術一層妙境に入り、遂に国焼中、並ぶものなきに至れり」とあります。
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