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朝日焼水指
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宇治(うじ)は、山城国(京都府)宇治で焼かれたとされる陶器をいいますが、朝日焼、宇治焼、宇治田原焼の名が知られています。
朝日焼(あさひやき)は、山城国(京都府)宇治の朝日山で作られた陶器のことをいいます。
朝日焼は、慶長年間(1596〜1615)奥村次郎右衛門藤作(陶作)が開窯したとされ、寛永十年(1633)年領主となった淀十万石城主永井信濃守尚政号信斎(1587〜1668)が織部・遠州の門下であったことから、信斎の庇護や支援を受けていたのではないかと考えられており、正保(1644〜1648)頃に二代奥村藤作(陶作)が小堀遠州(1579〜1647)の指導を受けたとされ、遠州七窯の一つに数えられ、主に遠州好みの茶器を焼き、慶安(1648〜1652)頃に絶えたといいますが、文献上の初見である『隔冥記』寛文六年(1666)五月に鹿苑寺住持鳳林承章が焼形二個を宇治朝日山に送り茶入を注文し、十一月にそれが出来てき仕覆を誂えたという記述があり、延宝六年(1678)瀬戸陶工森田久右衛門の旅行日記に朝日焼窯所を見物した旨の記述もあるところから、寛文九年(1669)永井家が移封した後も焼成していたことが知れ、元禄(1689〜1704)初年に絶えたとするものもあります。
朝日焼は、この時代の作を古朝日といい、多くは茶碗で茶入や水指は数が少なく、茶碗は御本風が主で、素地は褐色で、釉肌に黒斑があり、箆目、轆轤目、刷毛目が特徴となっています。茶入は唐物写しで瀬戸風のものを作っていたようです。
朝日焼は、当時としては珍しい刻印が押されたものがあり、刻印の「朝日」字は遠州筆と伝えられ俗に「遠州印」といわれ、「朝」の偏が「卓」になっている「卓朝日」印は遠州の三男小堀権十郎政尹(1625〜1694)筆と伝えられ「権十郎印」といわれています。他に車扁の「車朝日」印、扁の頭が「亠」になった「鍋蓋朝日」印などがあります。ただ『陶器考』は遠州好みは印なし、『本朝陶器攷證』は遠州の筆で銘は「朝日山」、『観古図説』『大成陶志』等は権十郎の筆、『陶器類集』は遠州並権十郎より印を賜るとしています。宗和の筆とするものもあります。
朝日焼は、文政年間(1818〜1830)に宇治の陶工が再興したが、長続きせず、これを後旭、後旭焼と称したとするものもあります。慶應年間(1865〜1868)の朝日焼再興願いの口上書には、元禄(1689〜1704)頃に、俵屋と名乗った四代目長兵衛が後旭焼と唱えて、一時中断していた焼立を行ったが、しばらくして再び中断したとあります。
朝日焼は、慶應三年(1867)松林長兵衛が茶碗山に窯を興し、引続き今日に及んでいます。今の朝日焼は紅斑のいわゆる御本が特色で、土の違いによるそれぞれの窯変を、淡いピンクの斑点があらわれる「燔師」(はんし)と、鹿の背を思わせる黄色がかった斑点があらわれる「鹿背」(かせ)に分けて呼んでいます。
宇治焼(うじやき)は、朝日焼の前身あるいは朝日焼の別称ともいわれますが、判然としません。
宇治焼とされる伝世品では、不審庵蔵の宗旦好の肩衝茶入が著名で、やや大振りの茶入で、肩に丸みがあり、胴裾まで瀬戸風の釉が掛り、暗紫色の透明釉の流れを置形とし、土は細かく底は糸切、内箱蓋裏に表千家四世逢源斎江岑宗左の「茶入 宗旦好 左(花押)」の書付、表千家十一世碌々斎瑞翁宗左が「宇治焼」と箱書付しています。
水指では、裏千家八世又玄斎一燈宗室好のものがあるといいます。
宇治焼は、千家に「朝日焼」とした箱書がなく、遠州に「宇治焼」とした箱書が見あたらないところから、同じものにそれぞれの名を付けているのではと云う向きもあります。
宇治田原焼は、戦国末から江戸初にかけて焼かれたものを「田原焼」、後年再興された「宇治田原焼」の刻印のある陶器を「宇治田原焼」とし、「田原焼」は朝日焼の初代とされる奥村次郎右衛門とその血縁や弟子の田原に残った者によるものと推測する向きがあります。
『隔蓂記』寛文六年(1666)五月十日に「茶入之焼形二ヶ遣上月三左衛門方也。於宇治朝日山、申付、可被焼之由、内々被申、形を可申由、依被申遣也」、同十一月三日に「自大平五兵衛、茶入取合蓋取寄、見合朝日焼之茶入、袋亦誂也。五兵衛江為持遺也」、寛文八年正月二日に「袖岡宇右衛門為礼来、朝日焼之茶椀壹ヶ恵也。予依有用所、而不対早々帰也」とあります。
『瀬戸陶工 森田久右衛門旅行日記』延宝六年(1678)に「一、同十八日、竹本五郎右ヱ門様并手引同道仕宇治見物、上林味卜方へ参、それより手引同道朝日焼見物、釜所迄焼物色々見物仕申」とあります。
『菟芸泥赴』貞享元年(1684)著に「一、宇治、此頃は茶の所となりて、いつこもいつこも皆園也、山の土は朝日焼の茶碗となり、河の石は茶磨となる、竹は茶杓茶筅にくたかれ、木は白炭にやかれて茶を煎る」「朝日観音堂 興聖寺の北よりつつらをりの道有て四五町登り山上に有、遠景あけていふへからす、是も信州の建立也、此麓陶作するを朝日焼と云」とあります。
『槐記』享保十四年(1729)三月四日道正庵会に「茶碗、朝日焼、ケウゲンバカマノ手」、同十六年四月二十九日道正庵会に「茶碗、朝日焼」とあります。
『陶器樂草』天保三年(1832)序に陶器出所名「一、朝日焼 京宇治、遠州時代、 一、田原焼 同」とあります。
『朝日焼古文書』に嘉永五年(1852)「乍恐奉願上候口上書 一、私居宅地之内裏地面之儀、興聖寺領地之内、先前より借請罷在候処、右場所にて先年陶器焼出候処、久敷中絶仕、当時は竈跡のみ有之候に付、以前之通陶器相稼申度候、依之此段奉願上候、何卒以右願之通御聞済被成下候はヽ、難有仕合可奉存候、以上 嘉永五子年二月 城州久世郡宇治郷 馬場町 願主 庄太郎(印) 右年寄 長兵衛(印) 信楽 御役所」、慶応二年(1866)「乍恐奉願口上書 一、私儀、兼て庭田様御殿え御立入仕、御用之茶并に瓦焼立奉調進、且私方先祖之者は、宇治川筋東手朝日山山麓にて朝日焼後旭と相唱候茶器之類焼立調進仕候例を以、此節、右御殿に御入用之茶器之類、所にて焼立調進可仕様、右御役人中より被仰付候に付、御請申上度、其段京都御役人様之は別紙写取奉入御高覧候通り之願書を以、御願出申度奉存候に付、此段奉願上候、何卒御慈悲を以、右願之趣御聞届被成下候はは、難有仕合可奉存候 以上 慶応弐年寅十二月 御代官所 城州久世郡宇治郷馬場町 乍年寄 百姓長兵衛(印) 組頭 同惣助(印) 多羅尾主税殿 御役所」、「乍恐奉願口上書 一、私儀、兼て庭田様御殿え御立入仕、御用之茶并に瓦焼立奉調進罷在候処、私先祖之もの、宇治川筋東手字朝日山と申山の麓におゐて朝日焼と唱、茶壺之類焼出し、右御殿え奉調進罷在候処、其後不用に相成一旦相止め、猶又同御殿御用に付、百七十年斗以前より後旭焼と唱を替、御入用之御茶壺類焼立調進罷在候処、代替り等にて、右御茶壺類焼立御用相勤候儀者中絶仕候得共、焼物之類を以、瓦焼御用は于今暦然相勤罷在候儀に御座候、然処此節前書御茶壺之類御入用之趣にて、焼立調進可仕様、右御殿御役人中より被仰渡候に付、御請申上度、此段御伺奉申上候、尤其段右御役人中よりも被仰立可有之筈に御座候間、右之趣御聞届被成下候は、被有仕合可奉存候、以上 慶応弐年寅十二月 多羅尾主税殿御代官所 城州久世郡宇治郷馬場町 乍年寄 百姓長兵衛(印) 組頭 同惣助(印) 御奉行様」とあります。
『陶器考』に「朝日 初代 遠州臣 窰所不定 朝日某 今豊前 同新十郎」
「朝日の説紛々、或宇治或は西国とす、其土をみるに浅黄薬白鼠土の物は、呂宋白土を用ゆ、黒鼠いろ鼠土に小砂の交りたるは真壷土を用ひ、音キンキンたり、赤土のものは音和く、宇治焼なり写ものとす、黒鼠色赤土のものは丹波出来にて、贋物也、後朝日は豊前に子孫ありて、今以て之を作る、朝日の名に依て朝日山焼と云は誤なり、窰は何れとも定かたし、遠州好無印朝日一百は呂宋焼とみゆ」とあります。
『本朝陶器攷證』に「一、山城国宇治朝日田原陶器 多羅尾久右ヱ門様御代官所、城州宇治郡宇治郷、恵心院門前東北手地名字茶盌山、右は真島村領の内にて、地所は郷中産神下の離宮社地にて、祢℃波伊勢守差配除地面、則右地茶盌山と申所、窰跡有之、右邊の地所堀候得は、土器の破杯出候よし。朝日山の焼銘は、離宮社後の山を朝日山と云、右地名を以朝日山焼と唱也哉のよし、初代慶長年中の頃、宇治町に住居、奥村次郎右ヱ門歟又は藤作とも相聞え、四代斗り相続き候所、慶安年中の頃相絶、子孫無御座候、其後土器師の者も無之、朝日山の銘の文字は、小堀遠州公之筆のよしにて、専ら茶器の類を焼候趣にて種々焼立候よし離宮下の社、寛永年中奥村藤作の造り候、唐物うつし茶入、茶盌、神納有之、則朝日焼初代の様子も申伝候。朝日焼茶盌、宇治茶師上林卜と申方に所持、向付皿四十人前宇治茶師星野宗以方に所持、右の外町内に中奥迄、相応に有之候所、他国より賞玩し、追々買得、当時は土地にすくなきよし、右の外巨細之事難相分け候。宇治田原焼之義、田原郷中其外、段々に承り合せ候得共、一切相分り申さず候」
「朝日山之焼銘は、離宮社後之山を朝日山と云、右地名を以朝日焼と唱候哉のよし、初代慶長中之頃、宇治町に住居、奥村次郎右衛門歟、又は藤作とも相聞え、四代計り相続き候所、慶安年中之頃相絶、子孫無御座候、其後土器師之者も無之、朝日山之銘之字は、小堀遠州公之筆のよしにて、専ら茶器之類を焼候趣にて、種々焼立候よし」
「朝日 城州宇治にての窰なり、惣体薄作りにて、器やうなるものなり、高台脇にきり大にあるもあり、薬は青み鼠色黄にて薬薄くも厚くもかゝりたるあり、朝日文字来字の方稀なり、ふとき方丈字印通例にてよしと云、又細き文字あり、天保の頃より是も大きに用ゆるなり、茶入水指茶壺もまゝあり遠州公の御好みとも云」
「田原焼 山城宇治にて焼なり、窰は古きか、遠州候の時代、新兵衛作の茶入ありて、遠州候書付箱に、一筋なだれ新と有、惣体薬は柿色にて黒景あり、茶入取廻しの薬に、クハンニウ入るなり、土も白土にてかたし、茶入の外はなし、又玄斎宗室の時に、好みの水指あり、是青薄きやうの黒にて、無景なる不格好の物なり」とあります。
『観古図説』に「朝日焼は(日本書紀に曰く雄略天皇十七年春三月土師の達等に詔して朝夕の御膳を盛る應へき清器を山背国の内村にて作らしめらる云々)此遺製は則ち朝日焼なり、古へは素焼計りなりしか遠州の好みにて茶器を製し此時の陶器の土は土器色にて薬の色は同しく土器なり、又青鼠色なるも有り水薬にて光沢少し同色のなだれ有るもあり、質は軟にて粗なり、唐津焼に近し、目方も軽し、朝日と云印を押せり、此印は権十郎政尹筆なり、寛永寛文年間生存せり、又隅切角の内に朝日と云文字の印も有り、又梅ばちの如き押形ある製も有り、此朝日焼一代にて絶へたりとそ、作人の名を太助と云、一派の風をなせり、近来の朝日と云文字の印は明治三年権十郎政安の筆なり。○朝日は山城国綴喜郡宇治の里也、東に旭山有り依て朝日と印す。○宇治より膳所迄五り、信楽迄六里計り」とあります。
『陶器類集』に「○朝日焼 仝焼の初めは慶長年間山城国宇治に住せる奥村次郎右衛門なる者の開始にして慶安承応の頃廃絶せりと云ふ、正保年間奥村藤作なる者遠州公の命を受け茶器を製す、皆な朝鮮陶器に倣ふ、遠州公並に権十郎政尹公より朝の印を賜ふと云ふ、文化年間宇治の工人再び竈を開き朝日の款印を用ゆるも其作古器に及ばすと云ふ。附言 朝日焼の説種々あり、或は四国に朝日某と云へる者ありて陶器を製し其名を印すとも云ふ、この説確かならず、又世に宇治焼と云ふ赤土の楽焼に似たるものあれども此れとは全く別物なり。○田原焼 宇治田原村中の郷にて焼くものとあれども詳からなず。附言 予も未だ同名の品を見たることなし、按するに寛永の頃小堀公の箱書に宇治とせしものは或は此等ならんか、遠州公の物には器物に印なし。○宇治焼 仝焼は詳かならず。附言 按するに古代の物は小堀公の箱書に宇治とあり京焼仁清に似たり(印なし)、叉一品は赤土の極軟弱なるものにして火度の弱きこと内竃のものに似たり、尾州萩山焼又は静岡賤機焼等に殆んど同じ薄き上釉の下に白土を以て画きたるものなり、裏に宇治焼の印を款す全く後世のものならんか」とあります。
『大成陶志』に「朝日焼 正保年間、小堀遠州宇治の工人をして朝日山麓に窰を築くと云ふ、其子権十郎に政尹朝日の二字印を授くと云ふ。宇治郡真島村茶盌山に窰跡あり、初め正保年間宇治町に、奥村次郎右衛門又藤作と云ふ者あり陶を業とす。同所産神離宮下の社に、寛文年間藤作が作りたる唐物摸造茶入茶盌等ありと云ふ。或説云、朝日焼は宗和好にて、朝日の印も宗和の筆なりと。慶応元年、松林長兵衛再興を思ひ立ち、庭田家に請て、故跡を開墾起業し、明治十年亡す。孫松林松之助継業、土は山城国久世郡藁田村に採ると云ふ。」「田原焼 山城宇治に窰あり、遠州時代新兵衛作の茶入あり、遠州書付に一筋あたれ新とあり。」とあります。
『工芸志料』に「朝日焼は正保年間小堀政一山城国宇治の工人に命して造らしむる所の者なり、窯を其の朝日山の麓に開く、製する所の者は皆茶碗なり、蓋朝鮮の御本(寛永年間征夷大将軍徳川家光命して朝鮮に於て製せしむる陶器を呼て御本といふ)と称する陶器に倣ふ者にして其の膚淡紅色亦淡青色なり、其の質粗糙にして自から雅致あり、政一の子権十郎政尹朝日の二字を書し以て印と為しこれを其の工人に與ふ、爾来茶碗、香合、鉢を製す、既にして其の窯廃絶す。○仁孝天皇の御宇、宇治の工人再たび窯を起し瓷器を焼く、亦朝日焼といふ、朝日の二字を印す、旧製に比ぶれは其の製作甚劣れり」とあります。
『古今京窯泥中閑話』に「山城宇治朝日焼再興 慶応初年に松林と云ふ人、農業と製茶と角力取りをしていた。松林長兵衛なるものが京都桜町音羽屋の陶職人と角力を取つてゐたが、或時に昔の朝日焼の話が出て京都の茶碗作者の云ふことには、昔流の朝日焼を再興してはどうぢやと勧めるに、長兵衛はこの人と協議の結果、桜町の角力達の陶工なる工匠五六人を職工に雇入れて、窯を築いて朝日焼を再興した。所が昔作に似ないので抹茶碗をやめて、酒器と煎茶碗各種の小物を宇治土産として造つてゐたのであつた。何分安価物であるから能く売れる。いかに苦心しても昔風の茶碗は出来なくて、私の父蔵六方へ、桜町の茶碗屋が長兵衛を誘ふて来て茶碗の説明を質問したが、父蔵六は茶碗を造り乍ら、朝日流の作法を教へて、茶碗の見本を長兵衛に与へ、長兵衛はこれを宇治へ持帰つて造つても中々困難であつた。初代蔵六の曰、長兵衛の伜を私方へ就業に来れと勧むるに長兵衛曰く、私の伜は角力を好みて、焼物屋は至極嫌で困りますと云つてゐた。父蔵六は云ふ、長兵衛の孫に作陶を教へるようにするがよいと云つた。後長兵衛の孫なる松林松之助に私が茶碗作を教へる。これは変り者で頑固で自慢ずきだ。私が松之助に朝日作の旧法を教へた。松之助の茶碗作に成功をするまでには、いろいろ面白いことがあるが私の自慢話になるから之を略する。」とあります。
『清安寺由来記』万治元年(1658)奥書に「加藤四郎右衛門江、令為受領〓筑後と号被下、加藤四郎右衛門前後受領之所。人皇百七代、正親町院様、(略)白薬手の茶碗御上覧に奉入、(略)是を筑後守朝日焼と名を給ひ誠に忝も有る。御勅言難有 預御褒美に依之筑後守と守名之、御官位奉御綸旨頂戴候、其後人皇百八代後陽成様天正十五年亥年亦亦焼物御上覧に奉入」とあります。
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