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珠光四畳半

珠光四畳半 紹鴎四畳半 利休四畳半

「東大寺四聖坊数寄屋図」

「茶湯次第書」四畳半図

珠光四畳半(じゅこうよじょうはん)とは、村田珠光が京都六条堀川に作ったと伝えられる方丈の茶室のことをいいます。
珠光四畳半は、四畳半の根本で「真の座敷」とされます。
ただ、珠光の茶室については、確かな遺構も史料もほとんどありません。
村田珠光の四畳半の茶室といわれるものは、『南方録』に書かれた、屋根は小板葺きの宝形造り、室内は鳥子紙の白張付、杉板のふちなし天井、床は一間床というものです。
珠光四畳半は、東大寺の四聖坊に残る古図に「珠光好地蔵院囲ノ写」と書込みのある四畳半座敷が画かれ、それによると一間床で、檜角の床柱、勝手付間中に柱を立てて壁とし、勝手口は一間二本襖を建て、入口に縁が付き、縁に面して障子四枚があります。
珠光四畳半は、東京芸術大学所蔵の『茶湯次第書』に「珠光の座敷斗に有」と書込みのある「落縁」(おちえん)が描かれた四畳半図があり、その四畳半座敷は、一間床で、床框(とこがまち)は栗の四角、一尺七寸炉、勝手との間に襖二枚、壁は張付壁(はりつけかべ)で長押(なげし)が打たれ、天井は竹縁の蒲天井、入口に縁が付き、縁は半間幅で堅板張(たていたばり)、縁先に二ッ割りした竹を打並べた落縁がついたものです。
上記二図は、『山上宗二記』に「又珠光かヽりは、北向右かつて」とあるように、共に右勝手(逆勝手)の茶室で、隣接する部屋との関係で客の入口の位置は異なりますが、同じ間取りで、一間床、入口に縁が付き、縁に面して障子を建て、勝手口は二本襖、右勝手(逆勝手)となっていて初期の四畳半の形式を表していると考えられています。

『南方録』に「四畳半座敷は珠光の作事也。真座敷とて鳥子紙の白張付、杉板のふちなし天井、小板ふき、宝形造、一間床なり。秘蔵の円悟の墨跡をかけ、台子をかざり給ふ。その後炉を切て弓台を置合られし也。大方、書院のかざり物を置かれ候へども、物数なども略ありしなり。床にも、二幅対のかけ絵、勿論、一幅の絵かけられしなり。前には卓に香炉、花入、あるひは小花瓶に一色立華、あるひは料紙、硯箱、短尺箱、文台、或は盆山、葉茶壷など、これらは専かざられしなり」とあります。
『東大寺四聖坊数寄屋図』書込に「四畳半 珠光好地蔵院囲ノ写」「床」「檜角」「カヘ」「襖二枚」「鴨居ノ上小壁天竺土ノワキロク 其外浅黄色ニ合ニテ張ル」「ヒサ(ル)カキ有リ クサリノ間也」「障子四枚」「エン」とあります。
『茶湯次第書』所載の四畳半図の書込に「右の座敷釜(蒲)天井竹縁」「惣の張付一間下ハはり付 なけしより上小屏風や張付ハ鳥の子」「一間の床」「床框栗の四角也」「いろり一尺七寸」「弐枚之襖障子」「縁間中幅堅板」「一枚板ニ而はた板也」「此落縁は志ゆ光の床(座)敷斗ニ有と見へたり 近比まて四条なぢや所々有 如比大竹二割にして落縁有之」とあります。
『宗長手記』大永六年(1526)八月十五日に「下京茶湯とて、此ごろ数寄などいひて、四畳半六畳鋪、おのおの興行」とあります。
『烏鼠集』に「珠光、松本、志野まては六畳敷也、前に申有口伝、堺の金具屋にて四畳半を仕初し、道具なきには六畳さひしきとて」とあります。
『山上宗二記』に「又珠光かヽりは、北向右かつて、坪の内に大なる柳一本在、後に松原広し、松風計聞く、引拙は南向右勝手、道陳は東向右勝手、宗達右勝手、何も道具に有子細歟、又台子をすくか、将又紹鴎之流は悉く左勝手北向也、但し宗易計は南向左勝手をすく、当時右かつてはを不用と也、珠光は四帖半、引拙は六帖敷也」とあります。
『茶湯古事談』に「むかしは茶会の席とて別に定てはなく、其席々々に見合て炉を切て点し、珠光の坐敷なとは六畳敷なりしとそ、但し炉の切処は何畳敷にても三所有、其伝にあけて切と、さけて切と、道具畳の向ふの地敷居へをしつけて切との三所也、然に武野紹鴫か四畳半の座敷を作り、はしめて炉を中に切しより以米、四畳半構へと云事有、又其後、千利休三畳大目構の座敷を作り、初めて炉を中に上て切しより、大目構の炉といひならはし、共頃より昔からいひ伝へし、あけて切、さけて切といふ詞は廃りはてゝ、今世杯は昔かゝる事有しと云事を知らぬ茶人多しとなん」とあります。
『源流茶話』に、「いにしへ、義政公は八畳敷に台子をかさられ、玉澗の八景八幅対を掛させられ候、珠光始めは六畳、又、維摩居士之方丈に則り、四畳半を数奇屋と御定候、紹鴎迄も四畳半に限候得とも、利休にいたり、 三畳大目・二畳大目・一畳大目迄の小座敷を作意し、中柱を立られ候、しかれども、珠光の本意をうしなはす、方丈之内を出すしてしつらはれ候也、口伝」とあります。

     
外観  天井    出入口
     
    台目構  水屋

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