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天竺

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天竺水指

天竺(てんじく)は、中国古代におけるインド地方の呼称です。
天竺は、サンスクリット語で「河」を意味し、インダス河の名に由来する地域名となったシンドゥ(Sindhu)の音訛といわれ、身毒(しんどく)、賢豆(けんず)、天篤(てんとく)とも呼ばれており、西方ではこの語からヒンドゥ(Hindu)とペルシア語化され、さらにアラビア語のヒンド(alHind)、ギリシア語のインドスを経て英語などのインド(Inde)へと転化したといわれます。
天竺の語は、文献的には後漢書が初出といい、魏晋南北朝期に一般化し、日本にも広まりますが、唐僧玄奘三蔵が「天竺」などの音写は不正確であるとして正音にしたがい「印度」の語をあてるべきとして、唐代以後は主として印度の語が用いられるようになります

『茶道筌蹄』に「唐物、抱桶、天竺、西瓜金、モウル金」とあります。
『後漢書』に「天竺國、一名身毒、在月氏之東南數千里。俗與月氏同、而卑濕暑熱。其國臨大水。乘象而戰。其人弱於月氏、修浮圖道、不殺伐、遂以成俗。從月氏、高附國以西、南至西海、東至磐起國、皆身毒之地。身毒有別城數百、城置長。別國數十、國置王。雖各小異、而倶以身毒為名、其時皆屬月氏。月氏殺其王而置將、令統其人。土出象、犀、玳瑁、金、銀、銅、鐵、鉛、錫、西與大秦通、有大秦珍物。又有細布、好毾卫、諸香、石蜜、胡椒、姜、K鹽。 和帝時、數遣使貢獻、後西域反畔、乃絶。至桓帝延熹二年、四年、頻從日南徼外來獻。世傳明帝夢見金人、長大、頂有光明、以問群臣。或曰、西方有神、名曰佛、其形長丈六尺而黄金色。帝於是遣使天竺、問佛道法、遂於中國圖畫形象焉。楚王英始信其術、中國因此頗有奉其道者。後桓帝好神、數祀浮圖、老子、百姓稍有奉者、後遂轉盛。」 (天竺国、一名は身毒。月氏の東南数千里に在り。俗は月氏と同じ、而れども卑湿にして暑熱なり。その国大水に臨む。象に乗りて戦う。その人月氏よりも弱く、浮図の道を修め、殺伐ならず、遂に以て俗を成す。月氏高附国より以西、南は西海に至り、東は磐起国に至る、みな身毒の地なり。身毒に別城数百あり、城に長を置く。別国数十、国に王を置く。おのおの小異ありと雖も、ともに身毒を以て名と為す、その時皆な月氏に属す。月氏その王を殺し将を置き、その人を統せしむ。土は象・犀・玳瑁・金・銀・銅・鐵・鉛・錫を出す、西は大秦と通じ、大秦には珍物あり。また細布・好毾卫・諸香・石蜜・胡椒・姜・K鹽あり。 和帝の時、しばしば使を遣わし貢献するも、後に西域反畔して絶ゆ。桓帝延熹二年、四年に至り、頻從日南徼外來獻。世に伝うるに明帝夢に金人の長大を見る、頂に光明あり、以て群臣に問う。或るひと曰く、西方に神あり、名づけて仏と曰う、その形は長け丈六尺、しかも黄金色なりと。帝、是において使いを天竺に遣り、仏の道法を問わしむるに、ついに中国において形像を図画けり。楚王英始めてその術を信じ、中国これに因りて頗るその道を奉る者あり。のち桓帝神を好み、しばしば浮図・老子を祀る。百姓やや奉る者あり、後に遂に盛に転ず。)とあります。
『大唐西域記』に「詳夫天竺之稱、異議糺紛、舊云身毒、或曰賢豆、今從正音、宜云印度。」(夫れ天竺の称は異議糺紛せり、旧は身毒と云い、或は賢豆と曰えり、今は正音に従いて、宜しく印度と云うべし。)とあります。

     
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