茶道茶道の道具茶碗 > 高麗茶碗 > 御本茶碗

御本茶碗

雲鶴 三島 刷毛目 堅手 粉引 井戸 熊川 呉器 蕎麦 斗々屋 柿の蔕 絵高麗 御所丸 金海 伊羅保 御本 半使 玉子手

茶碗

御本茶碗(ごほんちゃわん)とは、高麗茶碗の一種で、17〜18世紀にかけて、日本からの注文で焼かれたものをいいます。
御本の名前は、御手本の意で日本で作られた手本(茶碗の下絵や切り形)をもとに朝鮮で焼かれたことが由来です。
また、これらの茶碗には、胎土の成分から淡い紅色の斑点があらわれることが多く、この斑点を御本または御本手(ごほんで)と呼ぶこともあります。
寛永十六年(1639)の大福茶に細川三斎の喜寿を祝おうと、小堀遠州が茶碗の形をデザインし、三代将軍家光が下絵を描いた立鶴を型にして、茶碗の前後に押して、白と黒の象嵌を施した茶碗を、対馬藩宗家を取りつぎに、釜山窯で焼かせた茶碗を「御本立鶴茶碗」といい、御手本から始まったことから御本とよばれました。
釜山窯は、寛永十六年(1639)朝鮮釜山の和館内に築かれた対馬藩宗家の御用窯で、本来の名称は「和館茶碗窯」といい、大浦林斎、中山意三、船橋玄悦、中庭茂三(茂山)、波多野重右衛門、宮川道二、松村弥平太、平山意春らが燔師(はんし)としておもむき、朝鮮との陶土や燃料の供給の交渉にはじまり、朝鮮の陶工や日本から赴いた陶工を指導して注文品を焼かせました。
釜山窯では、古い高麗茶碗を基として、御本立鶴(たちづる)、御本雲鶴、御本三島、御本堅手、絵御本、御本半使、御本御所丸、御本金海、御本呉器、砂御本など非常に多様なものが焼造され、対馬宗家を通じて徳川家ほかの大名に送られました。
しかし、元禄をすぎると、しだいに朝鮮での陶土や燃料の供給が困難になり、享保三年(1718)に閉窯されました。
釜山釜の廃絶後、対馬藩は対馬に窯を築き、対馬の土で茶陶を焼き、これを對州(対州)御本といいます。

雲鶴 三島 刷毛目 堅手 粉引 井戸 熊川 呉器 蕎麦 斗々屋 柿の蔕 絵高麗 御所丸 金海 伊羅保 御本 半使 玉子手

茶道をお気に入りに追加