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一重切

一重切 二重切 尺八 輪無二重切 置筒 釣舟

一重切竹花入銘園城寺 東京国立博物館蔵

一重切(いちじゅうぎり)は、筒形の竹花入の前面に花を生ける窓がひとつ切られた形をいいます。
上端が輪になっていて、水溜の上の後方におぜを取り、釘穴があけてあります。
千利休が天正18年(1590)の小田原攻の折、箱根湯本で伊豆韮山の竹を取り寄せて「園城寺」(おんじょうじ)を作ったのが一重切の始めといいます。
園城寺の名は、竹に正面に割れ目があるのを、三井寺(園城寺)の弁慶の割れ鐘に思い合わせて「園城寺」と銘したといいます。
「園城寺」は、高さ33.4cm、太さ10.5 cm、真直ぐで肉厚の真竹で、やや裾広がりの底から直ぐに節があり、筒の中程に一節あり、上の輪の天辺は次の節の近くで刈られているためかすかに広がっています。
伝来は、少庵、宗旦、冬木家、不昧。東京博物館蔵。「武蔵鐙の文」が添っています。
一重切系の竹花入には、「鶴首」、「獅子口」、「鮟鱇」、「洞鮟鱇」、「円窓切」、「山路」、「鶯切」などがあります。
「鶴首(つるくび)」は、、裏千家の仙叟好で、やや細長い竹で、花間を長く切ったものです。
「獅子口(ししぐち)」は、太短い竹で、花間を横に大きく切ったものです。
「鮟鱇(あんこう)」は、切り口の大きいことを安康の口にたとえたもので、鶴首と獅子口の中間か。
「洞鮟鱇(ほらあんこう)」は、花間を花頭に開けたものです。
「円窓切(えんそうぎり)」は、花窓を丸く開けたものです。
「山路(やまじ)」は、表千家八代啐啄斎好で、啐啄斎が江戸へ通う中に使用するために好んだと伝えられ、高さが四・五寸の小さなものです。
「鶯切(うぐいすぎり)」は、花間の下方を斜めに切り、鶯のくちばしに見立てたものです。
『茶話指月集』に「此の筒(園城寺)、韮山竹、小田原帰陣の時の、千の少庵へ土産也。筒の裏に、園城寺少庵と書き付け有り。名判無し。又、此の同じ竹にて、先ず尺八を剪り、太閤へ献ず。其の次、音曲。巳上三本、何れも竹筒の名物なり。」、近松茂矩(1697〜1778)の『茶窓陂b』に「はじめ秀吉公の投捨給ひし竹は、前栽の石にあたりて、ひびき入りしが、利休拾ひて少庵へみやげとす。或時是を床にかけ、花を挿しに、其水のしたたりて、畳のぬれけるを見ていかにといひければ、此漏こそ命なれといひし、三井寺の鐘のひびきを思いて、園城寺と名づけ。即筒に園城寺少庵とばかり書付あり。後は金粉にてとめてあり。後金屋宗貞が許にありしを、京の家原自仙八百両にもとめ置し。或時尾州の野村宗二、京都に遊び帰るとて、自仙へいとま乞ひに行しに、来年の口切りの比には、必ずのぼられよ、園城寺いまだ茶に出さぬが、来年は、はじめて出さんといひしかば、宗二もそればかりに、又上京ありしに、彼園城寺を出し、口切りせしに、新たにかこひを立しが、其あたり見る処に、竹一本もおかざりし、是園城寺の竹に憚しいよし京中の茶人称美せし。」とあります。
また、『当世垣のぞき』に「竹の一重切を獅子口といへるは、千家に限りたる事なり、古事有りての事也と、池の坊家にては鰐口とも云、外茶家にては一重切といふなり、すべて獅子口々々々といへる故事も知らぬ人、千家にあらざる人はいわぬはづ也、わけも知らで獅子口と云は、未練の事也と」とあります。

     
鶴首  洞鮟鱇  円窓切  鶯切

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