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初代寒雉
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初代宮崎寒雉(みやざき かんち)は、江戸時代中期の金沢の釜師です。
初代寒雉は、加賀三代藩主前田利常(1594〜1658)の御抱鋳物師宮崎彦九郎吉綱(1586〜1657)の二男といわれ、名は義一、通称は彦九郎、晩年剃髪して一艸庵、寒雉、また徳翁と称します。
初代寒雉は、京都の名越三昌浄味(〜1638)の門人となったとされますが定かではなく、師とされるのは名越昌高(〜1639)、大西浄清(1594〜1682)、大西定林(〜1727)など諸説あります。
初代寒雉は、仙叟宗室に釜作りの指導を受け、寒雉菴号の名を受け、藩御用釜師となります。
初代寒雉は、柏葉釜、鉈釜、乙御前釜、霰釜、段々釜、大講堂釜、責紐釜、茶飯釜など多種多様な釜を鋳ています。
初代寒雉は、薄作で、釜肌は砂肌でざんぐりしており、焼抜もあっさりと焼き肌に皮を残し、口際や鐶付などに巣を入れ、蓋も焼抜で薄く、撮にも虫喰があります。
初代寒雉は、釜以外にも仏具類も多く、銅鐘や三具足などが金沢市近辺の諸寺に伝えられています。
初代寒雉は、正徳二年(1712)歿します。享年は八十歳とも八十余歳ともいわれます。
初代寒雉は、男子がなかったため、辻与次郎の末孫を娘の茂女の婿養子としたといいます。
石川県金沢市妙典寺雲龍文花瓶に「加州金沢妙典寺日随代 寛文七(1667)丁未九月十八日 施主 清光孫作 同埋忠七兵衛 宮崎彦九郎義一」とあります。
石川県珠洲市乗光寺梵鐘に「能州珠洲郡飯田町 落合乗光寺 願主先住釈豊皆 鎌倉権五郎景政末孫長屋 当住釈慶祐 延宝七(1679)己未年五月廿八日 冶工 加州金沢住宮崎彦九郎儀一 同息 宮崎彦三郎義治 小工 能州仲居住宮崎九郎兵衛吉家」
石川県羽咋郡志賀町専念寺梵鐘に「元禄四年(1691)末八月廿八日 能州羽喰郡徳田之庄 徳田村照明寺常住物也 願主 釋壽誓 右奉加之施主 七百五十余人 門徒中 外三十余人挙属 治工宮崎寒雉入道義一」とあります。
『茶道筌蹄』に「寒雉 初代浄味の弟子也、宮崎彦九郎と云ふ、加賀二代目利長公召てカマ師となる」とあります。
『茶家酔古襍』に「寒雉 宮崎氏、彦九郎、名義一、父を彦九郎と云鋳物師也、加賀の人、上京して三昌の門人となる、加賀に皈りて金沢に住す、薙髪してのち寒雉と号す、依て入道寒雉と称す、名人、正徳二年死す、大講堂、ナタ、小アラレ、乙姥口、栢葉、一艸庵好み責紐」とあります。
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