茶道茶道の道具 > 釜師

釜師

西村道仁 西村家 辻与次郎 辻家 名越家 下間家 大西家 江戸大西家 宮崎家 堀家

職人尽絵

釜師(かまし)とは、茶の湯に用いる釜を製作する鋳物師のことをいいます。
釜師の語は、文禄四年(1595)の釜座文書に「茶の湯釜師新三郎」と見えますが、慶長六年(1601)の文書には「釜屋」、慶長五年(1600)与二郎の寄進した鉄燈籠に「釜大工」と銘記されており、江戸初期の共箱や極書には「釜屋」とか「御釜屋」と書かれており、一般に釜師と称されるようになったのは西村道冶が元禄時代に千家出入になり御釜師と書いた江戸時代中期からといわれます。
釜師は、芦屋や天明では「金屋」(かなや)を称し、金屋個人の名が出るものは少なく地名をもってするのに対し、京釜では釜師個人の名が前面に出てきて、武野紹鴎や織田信長の釜師をつとめた「西村道仁」、秀吉や利休の釜師として「辻与次郎」が共に天下一を号し、古田織部の釜師として「名越善正」、「西村道仁」からは元伯宗旦の釜師「西村九兵衛」や「西村道也、道爺、道冶、道弥」などが、「名越善正」の子が京都名越と江戸名越とに分家し「小堀遠州」や「片桐石州」の釜師となります。

『釜師由緒』に「一、蘆屋 筑前國 一上代 極上作 凡五百年、二中代 同 凡四百年、三同 春延といふ 凡三百年、末 凡百五十年。釜鋳元祖は、土御門院建仁年中、栂尾明恵上人、筑前國蘆屋にて御茶湯釜初而鋳しむる也。 一、天明 一上代 極上作 凡四百年、二中代 凡三百年、三同 凡二百年、末 凡百五十年。天明は阪東冶工上手作也、是祖也、又佐野天明、小田原天猫は二代目より有之、天猫文字或は天命と云、小堀遠州公御改名と云ふ、古書に天明と書く方よしと。 一、越前 一上代 中作也 凡三百年、二中代 凡二百年、末 凡百五十年。 一、関東物 東三十三ヶ國の冶工皆天明の末葉也、古天明、佐野天明、小田原天猫の三作の外は下手なるによつて阪東下作を関東作と云也。 一、京作 京師天下一 西村道仁 信長公御釜師、紹鴎時代。一、京作 名越善正 家康公御釜師、同時代、浄味彌右衛門祖也、此作芦屋にも天明にもあらず両作兼而上作者也、天文、弘治、永禄の時代に當る。 一、京作 京師天下一 辻與次郎 太閤秀吉公御釜師、利休時代、藤左衛門、彌四郎と此三人利休の釜始て鋳る也。 一、京作 名越彌右衛門  元祖浄味事 古織部公御釜師、慶長年代。一、京作 名越浄正。一、京作 飯田助左衛門(遠州公御釜師)。一、京作 湯浅嘉右衛門(宗和釜師)。一、京作 西村九兵衛(宗旦釜師)。一、京作 安見與兵衛。一、京作 西村彌右衛門(元祖道三事)。一、京作 西村彌一郎(道彌也)。一、京作 五郎左衛門(元祖浄清事)。」とあります。
京都豊国神社の鉄燈籠に「奉寄進鉄灯籠慶長五庚子年八月十八日天下一釜大工与次郎実久鋳之」とあります。
『筑前国続風土記』に「昔此地に釜を鋳る良工数家あり。下野国天明釜よりなほ精巧なり。其鋳物師は太田氏、朝廷より受領の官を給はり、蘆屋釜とて天下に其名いちじるし。蘆屋の向、山鹿の里に居たりし故、山鹿左近丞と称す。天正の比より漸衰て、長政公入国し玉ふ時、なほ其工人の家ありといへども、其職人ども皆賎工となり、其後に家絶たり。其末裔は博多姪浜に移り、近世は博多に在りて良工なり。やゝ古にも及ぶべし。土産門に詳にしるす。」「昔より此国遠賀郡蘆屋里に鋳物師の良工有。元祖は元朝より帰化して上手なりしかば、菊桐の御紋の釜を鋳て禁中に捧げ、山鹿左近掾と称せらる。本姓は大田なれ共、蘆屋の山鹿に居住せる故山鹿と称す。世に菊の釜、桐の釜とて、茶人の珍とするは此釜より起れり。上野国天命釜も名産なれ共、蘆屋釜には及ばず。京江戸の釜匠も、蘆屋流に伝ふる引中心(なかご)と云精巧の法をしらず。彼左近丞が末、慶長年中長政公入国の比迄は蘆屋に在て、鋳工多かりしが、其後断絶し、遠孫ども博多或は姪浜に来て鋳る。其中に大田次兵衛と云物勝れて良工也。江戸京の鋳工におとらず。国君も用ひ給ふ。江戸、京、長崎、隣国よりも是を求て、新蘆屋と称す。また古の蘆屋釜に、雪舟が図する所間々有之。土佐氏画工の図も有。又鍋鋤鍬を鋳る冶工は博多に多し。其居所を金屋町といふ。其余の町にも住す。」とあります。
『茶道筌蹄』に「蘆屋 筑前 明恵上人始て釜を命すと云ふ」「天猫 小田原 河内 天猫は茶カマ師にあらす」「関東 天猫の脇作其外江戸を一同に関東作と云」「道仁 天下一西村道仁は紹鴎のカマ師也、與二郎の師と云ふ、紹鴎好桜川と云るカマあり道仁作」「利休のカマ師辻與二郎實久と云ふ弟子に彌四郎藤左エ門と云へるあり、上作ゆへカマ師にて此両人の作を與ニ郎と極む、法名一旦」「浄味 先祖を名護屋越前入道善正と云ふ、東山時代也、この後詳ならす、子孫に至て大仏の鐘を製するものを初代浄味と云ふ、其子昌乗斎其子三典浄味原叟時代也、これより後は正兵衛代作なり、〓(丸の中に常)初代より今にこの印をもちゆ」「道彌 道清の弟子すじ大西彌一郎と云ふ、此間に道運道有あり、つまびらかならす」「道也 道彌の子也、彌三右エ門と云ふ、後道冶と改む」「道爺 道也の子也、彌三右エ門と云ふ、原叟の時代より如心斎へかヽる、百佗達磨堂は原叟このみ、累座富士は如心斎このみなり」「寒雉 初代浄味の弟子也、宮崎彦九郎と云ふ、加賀二代目利長公召てカマ師となる」「九兵衛 西村九兵衛といふ、道彌親類、元伯時代一代也」「浄林 姓は大西、浄味の弟子」「浄清 浄林の弟也、兄弟共に織部公に随て関東へ行く、浄林は江戸に足を止め御釜師となる、浄清は京へ帰り住す」「浄元 浄清の子也、浄頓(浄元の子)、浄入(浄頓の子)、浄元(浄入の子)、これより道翁死後千家へ出入となる、浄玄(浄元の子)、清右エ門(浄玄の子)早世す故に弟子與兵佐兵衛家をつぐ、後浄元と云ふ、其子清右エ門大西にかへる、弟佐兵衛奥平と云ふ、清は大西、入は廣瀬、初の元井上、後の元細野、佐兵衛より大西」とあります。

茶道をお気に入りに追加