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信楽水指

鬼桶  一重口 矢筈口

信楽水指 利休在判 今日庵伝来

信楽(しがらき)は、近江国(滋賀県)甲賀郡信楽を中心として焼かれた陶磁器の通称のことです。
信楽焼は、天平十四年(742)聖武天皇が紫香楽宮を造営したとき、造営用布目瓦を焼いたのがその始まりとされ、中世末期頃より窖窯(あながま)によって壺、甕、擂鉢などの雑器が焼かれていましたが、室町時代後期に侘茶が流行しはじめると、いち早く注目を集め、種壺は「蹲」(うずくまる)の花入や水指に、糸を紡ぐ時に綿や麻を入れる苧(緒)桶(おおけ)は「鬼桶」(おにおけ)の水指に、油壺や酒壼は花入にと見立てられ、備前とともに最も数多く茶道具として取り上げられています。
信楽焼は、長石を含んだ白色の信楽胎土は鉄分の少ないため、明るく暖かい雰囲気が特徴で、無釉ながら焼成中に薪の灰がかかってできた自然釉が淡黄、緑、暗褐色などを呈した「灰被り」、薪の灰が降りかかり素地に含まれる長石とともに溶け出しガラス質となり流れ出した「釉流れ」、流れ出した自然釉の先が釉溜まりとなり丸く盛り上がった「蜻蛉の目」、炎があたって赤く発色した「火色」、薪の灰に埋まって素地や自然釉が黒褐色になった「焦げ」、胎土中の粗い長石粒が溶けて乳白色のツブツブになる「石はぜ」などが景色となっています。
信楽焼は、武野紹鴎、千利休、千宗旦の好んだものを、紹鴎信楽、利休信楽(宗易信楽)、宗旦信楽、小堀遠州が指図して作らせたものを遠州信楽、信楽の土を用いて、本阿弥空中、野々村仁清、有来新兵衛らが製したものを、空中信楽、仁清信楽、新兵衛信楽などといいます。
信楽水指は、天文十一年(1542)利休の師の北向道陳(きたむきどうちん)が用いたのが会記における初出で、弘治三年(1557)には紹鴎一の弟子で利休の師でもある辻玄哉(つじげんさい)が用い、これは元亀二年(1571)に津田宗及に譲渡された『山上宗二記』に「玄哉信楽鬼桶」とある玄哉が苧桶を水指に取り上げたものと考えられており、天正七年(1579)には「信楽盥」とあり、信楽陶が水指に転用されていくのが見えますが、慶長六年(1601)には「信楽ともふたの水指」とあり共蓋の水指が造られるようになり、寛永年間(1624〜1645)には様々な新しい形態の信楽水指が現れるようになり、それにともない区別するためか「古信楽水指」の名も現れます。
信楽水指は、「千家名物三水指」として「楊貴妃」「風折」「磯シミヅ」あるいは「風折」「磯シミヅ」「三夕」、「楊貴妃」「腰折」「柴庵」とする三通りの組合せが伝えられている六口の水指があり、著名とされています。

    利休所持 信楽一重口水指 銘「磯シミヅ」
楊貴妃  風折  磯シミヅ
中興名物 信楽矢筈口水指 銘「三夕」    重文 利休所持 信楽一重口水指 銘「柴庵」 東京国立博物館蔵
三夕  腰折  柴庵

「珠光古市播磨法師宛一紙(心の文)」に「当時ひゑかるゝと申して、初心の人躰か、ひせん物しからき物なとをもちて、人もゆるさぬたけくらむ事、言語道断也」とあります。
『久政茶会記』 天文十一年(1542)四月九日堺北向道陳会に「床ニ晩鐘 牧渓、小軸、足ノアルツリ物、信楽水指、畳ニ置合、茶ノ前ニ画ヲ取テ、松花大壺、アミニ入テ出ル」、弘治三年(1557)卯月十八日辻玄哉会「長板にしからき水さし」とあります。
『宗及茶湯日記他会記』元亀二年(1571)三月二日曲庵会「於曲庵、鬼桶のしからき見申候、玄哉は煩候而、曲に而、見せられ候、即、宗及所持候、代百貫文、金子之代拾五両にして渡候」、元亀三年(1572)正月九日満田宗春会「しからき、せい高きやうに見へ候、こしのよれあしく候歟、土白け色、ひヽわれのやうに惣に見へたり、紹鴎之しからき也」、天正七年(1579)十二月廿四日重宗甫会「棚はから物也、同下に、しからきたらい」とあります。
『宗及茶湯日記自会記』元亀二年(1571)三月十日「一、風炉 ふとん、鬼桶しからき、此玄哉所持之也、但、此水指、京都より取てくたり、ひらき也、客人しられす、俄如此候、三月八日に帰宅、しからき請取候事、三月四日に曲庵使候」とあります。
『久好茶会記』慶長六年(1601)十一月廿日古織部会「信楽ともふたの水指に、茶入盆共に置合て」、同十一月二十一日小堀作介会「信楽ともふたの水指」とあります。
『久重茶会記』寛永十二年(1635)卯月二日妙心寺大林会「信楽水指、宗和の形とて、こしをしめたる」、寛永十四年(1637)五月廿一日唐物屋道味会「古信楽水指」、寛永十八年(1641)二月十九日大蔵長右衛門会「信楽水指、瓜に似たるの」、寛永二十年(1643)正月十三日中坊長兵衛会「信楽菱なり水指」、正保三年(1646)五月廿八日小堀遠江守会「ひらき水指、ふる信楽、ぬり蓋也」とあります。
『山上宗二記』「名物の水さし」に「一、紹鴎しからき、宗易しからき、何も善き水さし也。一、玄哉しからき鬼桶 城之助殿にて失候、未出候はんか。」とあります。
『瓢翁夜話』に「古信楽といふうものハ、弘安年間製せし所のものにて、極疎末なる種壷類に過ぎざりき、其後点茶の宗匠紹鴎、利休、宗旦、遠州など、工人に命じてつくらしめしより、これらの人の名の冠らせて称美せらる。この外空中信楽、仁清信楽などいふものあり、是又空中、仁清が信楽の土を以て諸器を製せしよりの名なり」とあります。
『工芸志料』に「信楽焼は弘安年間、近江国甲賀郡の信楽の長野村に於て始めて製造す、而れども未茶器を造るに及ばず、僅に種壷(種子を蓄へ置く壷なり)、浸種壷(その故を知らず)等に止る、後世これを古信楽といふ、其の質粗にして砂を含み甚堅硬なり、而して釉は濁黄赤にして、其の上に透明なる淡青釉を斑に施せるを以て上等の品と為す。 永正年間信楽の工人始て茶器を製す、時に武野紹鴎といふ者あり、点茶を以て世に鳴る、紹鴎此の茶器を愛す、因て称して紹鴎信楽といふ。 天正年間点茶の宗匠千利休といふ者あり、亦信楽に於て製する所の茶器を愛す、世人利休の愛する所の者を以て利休信楽といふ。 寛永年間点茶の宗匠千宗旦といふ者あり、宗旦も亦信楽の茶器を愛す、世人宗旦の愛する所の者を以て宗旦信楽といふ、是の時に当て小堀政一といふ者あり、政一も亦点茶を能くす、政一信楽の工人に命じて更に一種の茶器を造らしむ、その製法は漉土を用ゐる、因て其の製出する所の器物皆肉薄くして、前製の者に比すれば一層精巧なり、是を遠州信楽といふ(政一は遠江守に任ず故に遠州信楽の名あり)、又京師の人本阿弥、空中、野々村仁清、陶工新兵衛某(空中、野々村、新兵衛のことは並に皆京師の條下に詳にす、宜しく合看すべし)といふ者あり、信楽の土を以て諸器を製す(其の製は前製に倣ふ)、是を空中信楽、仁清信楽、新兵衛信楽といふ。爾来其の地の工人、是等の形容に倣ひ諸器を造り、業を伝えて今に至る。」とあります。

     
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