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真手桶水指

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真手桶水指

真手桶(しんのておけ)は、真塗の手の付いた桶形の水指で、胴と裾に箍(たが)を嵌め、底の三方に低い足をつけ、割蓋(わりぶた)が添ったものをいいます。
手桶水指は、はじめ東山御殿にあった塗桶を、村田珠光が杉木地で好み、上下に籐の箍(たが)を掛け水指としたと伝えられ、のちに武野紹鴎が真塗に改めて台子用にしたといい、これを真手桶といいます。
真手桶は、紹鴎は大ぶりのもの、利休は小ぶりのものを好んでいます。
真手桶は、茶会記においては、天文八年(1539)に初めて現れ、永禄年間(1558〜1570)から天正13年(1585)頃までが最も多く、天正八年(1580)前後を頂点とし、天正十二年(1586)頃から使用が減り始め、天正十四年(1588)に激減し、代わって釣瓶水指が急増するといいます。
寄竹手桶水指

手桶水指は、真手桶のほかに、紹鴎好みの煤竹の割竹を縦に並べて張りつめ上下に二本の箍を嵌めた寄竹手桶、遠州好みの朱手桶、表千家四世逢源斎江岑宗左好みの銀箍で内側を黒塗りにした朱手桶、表千家五世随流斎良休宗佐好みの利休形よりやや細見の上開きで蓋の合せ目が重なっていない真塗手桶、表千家九世了々斎曠叔宗左好みの小型の真塗手桶、裏千家十世認得斎柏叟宗室好みの黒箍を嵌めた朱手桶、表千家十一世碌々斎瑞翁宗左好みの小型の朱手桶、表千家十二世惺斎敬翁宗左好みの白竹張手桶、貝尽朱手桶、春野蒔絵黒手桶、秋野溜手桶、吹寄黒手桶、楽器蒔絵手桶、その他に朱塗の上に透漆をかけた紅溜塗や木地に透漆を塗った春慶塗の手桶、菊桐、桐竹、花筏などの蒔絵を施したものなどがあります。

『松屋会記』天文八年(1539)二月三日城戸町少清会に「きぬた釜一、手桶に蓋をき、柄杓置て」、弘治二年(1556)三月十七日堺万代屋会に「平釜、丸板に真手桶置合」とあります。
『天王寺屋会記』永禄五年(1562)五月廿七日朝、宗易会に「一床 細口、水はかり入て、長盆に、手桶」とあります。
不審庵蔵記(喜)三作黒塗手桶水指添利休筆喜(三)宛書状に「手桶数五ツ、下可給候、此内三ツ、一段急申候、足ノひろさ、以前申候、たゝミの目二ツの内にあるほとにて、ぬり、又惣のなり、いかにもよくきんせらるへく候、恐々謹言、十一月廿三日 宗易(花押) (封)抛斎宗易 喜□ まいる」とあります。
『草人木』に「是略の三餝也。是珠光の作也、水指は手桶を杉のめのこまかなにて木色にし、わにハと(籐)を上に一ツ、下に二ツつかひて也」「ぬり手桶は紹鴎・利休已来也」とあります。
『茶道筌蹄』に「ぬり物」「真手桶 紹鴎好、山中氏所持、底に朱にて大黒庵とあり、元来台子の水指也、竹台子へ取合すは仙叟、四方棚に取合すは原叟、風炉には一つ足を向へなす、平点前は炉・風炉共前になす」「朱手桶 朱に銀輪、江岑このみ、内くろぬり」「黒片口 利休かた也、木地、大の方を檜木地にめくろぬり、仙叟このみなり」「みる貝片くち 原叟好、実は紀州大恵院様御このみ、外ため内くろ、金と朱にてみる貝の蒔絵」とあります。
『源流茶話』に「古へ水指ハ唐物金の類、南蛮抱桶或ハ真ノ手桶のたくひにて候を、珠光 備前・しからきの風流なるを撰ひ用ひられ候へ共、なほまれなる故に、侘のたすけに、紹鴎、釣瓶の水指を好ミ出され、利休ハまけ物、極侘は片口をもゆるされ候」 とあります。
『茶器名物図彙』に「竹之水差者、古人珠光造之至于紹鴎経幾年、自是宗易所持、伝来之一器附属某、可秘宝、江月宗玩」「寛保年間、如心斎、大龍和尚に賞美せられ、宗知居士(鴻池)にすゝめ、宗哲に写さしむ、今世にあるところの竹の水さしは此とき出来る」とあるといいます。

     
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