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真台子真台子 及台子 竹台子 高麗台子 長板
真台子(しんだいす)は、長方形の天板と地板を四本の柱で支えた黒塗の「真」の格の茶道具を飾る棚です。
台子は、飾り方に一定の規式があり、これを台子飾りといいます。
台子は、この規式は能阿弥が「書院の七所飾」を参考に「書院の台子飾」を制定したとされます。
台子は、真台子・及台子・竹台子・桑台子・高麗台子などがあります。
台子は、元来は禅寺の茶礼に使用していた道具で、文永四年(1267)南浦紹明(なんぽしようみよう)が宋から将来したと伝えられ、室町初期の台子棚は幅一間ほどもあり現在の台子とは異なったようです。
『南方録』に「大台子、東山殿には唐台三つまで御所持ありしかども、はゞ長さカネに合たるは一つと、紹鴎の覚書にあり。所々御台子を用らるゝに付、日本にて能阿弥好にてカネよくこしらへられしと云々。」とあります。
『茶道筌蹄』に「台子 真 大小。真の台子は唐物写し、千家所持は盛阿弥作、大の方を当時写し来る、小の方は利休時代より千家伝来ありしを中頃より伝はらざるよし、是を如心斎興す」とあります。
『千家茶事不白斎聞書』に「真の台子大小、台は風炉用、小は炉用、是は唐に而高官の膳也、昔越前永平寺とふけん和尚入唐之節持帰りたる台子を、日本に而茶の湯之台子に用、珠光譲請用、小に風炉置事なし」とあります。
『嬉遊笑覧』に「筑前国崇福寺の開山南浦紹明、正元のころ入宋し径山寺虚堂に嗣法し、文永四年に帰朝す、其頃台子一かざり径山寺より将来し崇福寺の什物とす、是茶式の始なるにや、後台子を柴野大徳寺へ送り、又天竜寺の開山夢窓へ渡り、夢窓この台子にて茶の湯を始め茶式を定むといへり」とあります。
『源流茶話』に「今用る四本柱の台子ハ利休改正にて大円盆を長盆に改め、茄子又は円壺の茶入に台天目を組合、真行台子の法を被定候」とあります。
『貞要集』に「台子の起は、筑州崇福寺の開山南浦紹明入唐し、帰朝の時、始て台子一荘携来れりとなり、それより柴野大徳寺に伝はれり、其後尊氏将軍の御時代、天龍寺開山夢窓国師、築山泉水遣水等の作り庭を営み、台子を以て茶会を執行はれしとかや、此時より茶道漸世に行はれ、武家にも茶亭作庭を構、賞玩せしより、台子武家に渡れり、かくて慈照院義政公の時までは、台子の茶式も区区なりしに、其頃名を得し茶人を召集、茶道の方式、並名物の茶器を詮議し給へるに、中にも南都称名院の住僧珠光は、茶道において自得融通の聞えありしをめされて、能阿弥、相阿弥立合、台子長盆茶入台天目の茶式を定られしより、台子の法は後世に伝はれり」とあります。
『茶式湖月抄』に「利休好 真の台子 盛阿弥写。惣高二尺二寸。(図あり)地板 長三尺、巾一尺四寸二分、地板(厚)一寸四分、地板チリ四分。天井 長三尺二寸、巾一尺四寸、天井(厚)六分。柱八分四方メン一分、チリ三分」、「盛阿弥形真台子、四本柱惣黒塗、不審庵に有之利休所持、盛阿弥作之台子なり。(図あり)惣高二尺二寸分中。(地板下面)長さ三尺一寸、(地板上面)長さ二尺九寸六分半、地板巾一尺三寸九分、同厚さ一寸三分、上の巾六分少し。(天井上面)長さ二尺九寸九分、(天井下面)長さ二尺九寸五分半、天井板巾一尺三寸八分、厚五分半、下の巾二分少し。柱長二尺二寸、太さ六分半面合半六分にもする。柱より柱まで内法に尺七寸四分、横柱内一尺一寸二分」、「利休好 真台子、前図に大方同じ仍て略之、伝書に宗哲の台子の寸法。長さ二尺八寸六分、惣高二尺一寸六分半 横一尺三寸八分半。地板厚さ一寸三分、天井厚六分、柱太さ七分面分中、端ハミ一寸九分、但内前七分つ丶両脇ともそとよりよけなり。柱竪所にて柱と柱との間 内法二尺五寸八分、同横の方柱 内法一尺一寸五リン。天井板丸如斯、天井板の下の丸みナデカクをろし一分半。地板の両方ナデカクのをろし二分八リン。」とあります。
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