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寄棟造

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寄棟造 燈心亭

寄棟造(よせむねづくり)は、屋根形状のひとつで、中央に水平の大棟(おおむね)があり、その両端から四方に隅棟(すみむね)が出る形式の屋根のことです。
寄棟造は、単に寄棟ともいい、四注造(しちゅうづくり)ともいいます。
寄棟造は、古代では「四阿・東屋」(あづまや)といい、「あ」(阿)は「棟」の意味で、「つま」は「端」で、四方に軒を下ろした形というところからきているとも、都から離れた地方を表す東(あずま)の家というところから「東屋」(あずまや)と呼ばれたともいいます。
寄棟造は、水無瀬神宮茶室燈心亭(とうしんてい)があります。燈心亭の屋根は茅葺の寄棟屋根で、三畳台目の茶室と三畳台目の水屋勝手からなり、三方を畳縁(入側)が廻り、背後は四本の捨柱を立て土間庇となっています。

『儀禮 鄭氏注』士昏禮に「阿、棟也」とあります。
『類聚名物考』に「つま 軒のつま あつまや 爪 端(義訓) 妻(俗字)。これは端と云ふに同し意あり、もとは爪なり、漢書王莽傳に云ふ。(中略)(前漢書九十九王莽傳下)或言、黄帝時建華蓋、以登僊、莽乃造華蓋、九重高八丈一尺、金瑵葆羽、載以祕機、四輪車駕、六馬云々。注、師古曰瑵讀曰爪、謂蓋弓頭為爪形。今思ふに、つまに端と書は義訓也、妻は借字也、爪を正とすべし、すべてつまとは、家の宇(のき)の下にさしくだしたる端をいへり、四阿をあづまやと訓るは、四方みな軒をおろして爪あれば也、今俗に云宝形造り也、その爪を切取たる方を切爪といふ、破風の方をいふ也、さてつまとは、軒の方は垂木のさし出て有が、人の指を延て、爪のそろひたる様に似たればいふ也、今堂塔などに、扇垂木といふ物有は、まさしく傘の骨に似たり、これ王莽が伝に見えし蓋の制より出たり」とあります。
『和名類聚抄』に「四阿 唐令云、宮殿皆四阿、和名阿豆萬夜」とあります。
『和訓栞』に「あづまや 和名杪に四阿をよめり、のきを四方におろしたる御所造の体をいふといへり、続日本紀にも、御四阿仮殿とみゆ、されば四方に壁なき屋也ともいへり、庭訓に、局部屋、四阿也、桟敷などならべいへり、催馬楽に、あづまやのまやといへり、相爪屋の義也、又東屋の義にて、其初め東国の俗に出しともいへり、四阿は、周礼左伝等に見へたり、逸周書の伝に、宮廟四下曰阿と見ゆ」とあります。
『家屋雑考』に「四阿 和名杪に唐令を引きて、宮殿皆四阿、和名阿豆萬夜と見え、阿は簷の事にて、四隅へ角木を亘し、搏風をいれず、檜波田を葺き卸にしたる造方なり、是を東屋造といふ、然るに古代は、内裏の諸殿をはじめ、高貴の家々此家造なれば、此屋をさして宮殿造とも、又は御所造などもいへり、旧説に、こはもと東国の屋作を移されたる故の名にて、即ち東屋の義なりといへども、信じがたし、其故は文武天皇以来、国家の仕置、凡べて唐代の制に倣ひ給ひ、宮殿の造方とても、もはらかの国の制を移し、唐令にいはゆる、宮殿皆四阿施鵄尾などあるを、うつし造られしは、論ふまでもなき事なり、しかるに東国卑賤の屋造をうつされしなどいふは、據もなき妄談なり、依りて今按ずるに、加茂真淵が催馬楽考といふ物に、あづまやのあは阿にて字音なれば、今の京以来の名ならむとみえて、此説尤当れるに似たり、然るにかの催馬楽考は、未成の書にて委しくもしるしおかざれば、今少しく其説を弁ずべし、まづ四阿の阿は、字書にも説々ありて、檐の事ながら、逸周書伝に宮廟四下曰阿と見えて、四阿といはずとも、阿とだにいへば、屋の四方に垂れたる事なり、ツマは屋の端の古言なれば、時俗の唱に、四方に垂れたるツマヤといふこと分知せんとて、阿ヅマ屋といふまじきにあらず、すべて和名の紛らはしき物に、漢名をそへ、笙のフエ、箏のコトなどいふ類も少からず、是等になずらへて、四阿の訓義を知るべし、しかれば東屋吾妻屋など書くは、訓を借りたるにて、東海東山等の字の義にはあらず」とあります。

     
間取  天井    出入口
     
    台目構  水屋

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