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佐野天命

佐野天命 小田原天命 関東作

佐野天命

佐野天命(さのてんみょう)とは、下野国佐野庄天命(栃木県佐野市犬伏町)で作られた茶湯釜のことです。
天命釜は、正長年間(1428〜1429)から天文年間(1532〜1555)頃のものを古天明といい、その後のものを後天明あるいは佐野天明というものもあります。
天命は、往古は天命といいましたが、寛永十年(1633)井伊掃部頭が領したときに天命と小屋の二字を合して天明村とし、以降天明と称されるようになります。
天命の語は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)が日本で始て鍋釜を用いたことから、天の字と命の字を以て天命と称したということが『鋳物師由緒書』にみえます。『鋳物師由緒書』は一種の偽文書とされますが、天命を名乗る鋳物師集団があり、それらが居住したところからというようなことも考えられます。
天命は、平将門の乱に際し、将門征討軍の長であった下野押領使藤原秀郷が、天慶二年(939)武器鋳造のために、河内国丹南郡から鋳物師五人を寺岡村(現足利市寺岡町)に移住させたと伝えられ、寺岡村は金屋寺岡村と称したといい、平安後期に寺岡村より天命の地に移住したとされます。
天命の鋳物師は、慶長七年(1602)佐野信吉が居城を唐沢山城から春日山に移築した際に、金屋町に集住させられています。
天命は、古くは一般炊飯用の甑口の平丸釜が鋳られており、最古の遺品として茶湯用に造られたものではありませんが「極楽律寺総維坊」「文和元壬辰臘月日(1352)」の銘文のある尾垂釜があり、室町時代になりその無骨な姿が茶湯釜として好まれるようになると、東山時代頃から茶湯用として鋳出すようになり、室町時代末には筑前芦屋釜と並び称されるようになり、その後江戸時代初頭まで茶湯釜を鋳出しています。
天命は、東山時代は挽肌(ひきはだ)でしたが、室町時代末期頃から、筅肌(ささらはだ)、弾肌(はじきはだ)、荒肌(あらはだ)などの釜肌を創案し、釜の形態も変化のある豪快なものを鋳出すようになります。

『鋳物師由緒書』に「爰ニ七十六代近衛院御宇仁平年中、毎夜深更に及ひ悪風吹来て、禁内の燈火一時に滅るの刻、主上御悩に成せ玉ふにより、高貴の僧を召御祈有と云へとも、更に其験し無の処に、御蔵民部大丞紀元弘、其頃は河内国丹南郡の内を領せし、則領内の鋳物師天命某を召つれ禁庭に伺公し、鉄燈炉一基献上す、此燈炉の火、悪風も滅すあたはす、去によつて則鉄燈炉百八鋳物に仰付られけれは、不日に成就し調進す、此燈炉の光を以て、御悩も早速平愈成せ玉ふ、如斯の闇夜たりと云へとも、禁内如日中燈炉の光り上天まて耀けれは、御感の余りに、鋳物師某が天命を改られ、天明号称せられぬ、抑天命と号する子細は、天兒屋根命日本に始て鍋釜を用初玉ふより、天の字命の字両字を以て天命と称せしを、此時斯勅して改号し玉ふ、且は国家の重器を鋳造せる職なれはとて、藤原の姓を玉はり、国家と下玉ふ、尚禁庭に在番仰付られ、忠賞尤有難き事共也、其上河内天明か筋目の外末代に至迄他の鋳物師を堅停止せられ、売買の業を全して、勅役を専に相勤す」
『茶湯古事談』に「天明釜ハ上町国佐野の天明の釜師か鋳しをいゑり、天猫とも書ぬ、世に関東釜ともいふ、古き釜の名物ハ多くハ芦屋・天明の釜なりとなん」とあります。
『釜師由緒』に「天明は阪東治工上手作也。是祖也。又佐野天明、小田原天猫は二代目より有之。天猫文字或は天命と云、小堀遠州公御改名と云う、古書に天明と書く方よしと依而我家の證文に右之文字書く也」とあります。
『茶道筌蹄』に「天猫 小田原 河内 天猫は茶かま師にあらす」とあります。

     
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