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芦屋釜

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芦屋浜松文真形釜 東京国立博物館蔵

芦屋釜(あしやがま)とは、鎌倉時代末期から桃山時代の天正年間にかけて筑前国(福岡県)遠賀川(おんががわ)の河口にある山鹿庄芦屋津(やまがのしょうあしやづ)で制作された茶の湯釜の総称です。
芦屋釜の多くは、真形(しんなり)で、口は繰口(くりくち)、鐶付は鬼面(きめん)が多く用いられており、胴部に羽をめぐらし(古い釜のほとんどは底の修理で打ちかかれている)、鋳肌は滑らかないわゆる鯰肌(なまずはだ)、多くは地にヘラ押しによる文様を表しています。
芦屋釜は、胴部の厚みが薄く、鋳型の中空部を作るために内に収める型である中子(なかご)が、「挽中子」(ひきなかご)と呼ばれる、縄を巻いた上にもみ殻、寸莎、髪の毛などを混ぜた土を塗り、軸を回転させる方法で作成するため、回したことで出る挽き目がうっすらと釜の内側に細い筋として残っているという特徴があります。
芦屋釜は、鋳造は鎌倉時代ごろに始まり、東山時代にその名声が高まり、室町時代末期まで隆盛をきわめていましたが、天文12年(1551)庇護者の戦国大名大内氏が陶晴賢に滅ぼされたあと、工人等は四散して越前・伊勢・伊予・石見・肥前・播州などに移り芦屋風の釜を鋳造し、「越前芦屋」「伊勢芦屋」「博多芦屋」「伊予芦屋」「石見芦屋」「肥前芦屋」「播州芦屋」などと呼ばれるように各地に分派し、本貫の「筑前芦屋」は桃山時代にはいって衰退し、江戸時代初頭には絶えました。
芦屋釜は、桃山時代以前のものをとくに古芦屋と呼び、現在国の重要文化財に指定されている茶釜九点の内、八点が古芦屋釜、一点が古天明釜となっています。一方で近世以降、多くの芦屋写しが作られ、それらが芦屋釜として流通しているものも極めて多いといいます。
芦屋釜に関する文献では『看聞御記』の嘉吉三年(1443)正月廿二日条に「一慶和尚参。対面。蘆屋釜一。蝋燭十廷被進。」と見えるものが最も古いとされます。

『釜師由緒』に「釜鋳元祖は、土御門院建仁年中、栂尾明恵上人、筑前国蘆屋に御茶湯釜初而鋳しむる也」とあります。
『江海風帆草』に「蘆屋釜屋の元祖は山鹿太郎、同左近掾氏は大田氏也、山鹿にありし故山鹿の左近といふなり、此左近名人にて東山殿より左近掾と称せらる、東山殿の御時能阿弥始て中板のかざりを始し時かな風炉とも此左近に鋳させらるヽこと利休の録に見えたり、今此末は同国博多にあり、大田治兵衛といふ者にて国主の用を調いにしへにも及ぶほどの鋳物師ゆえ江戸京長崎隣国よりもかれが製を求む、寛永の比までは蘆屋にも此鋳物師の末残りしが今は絶たり」とあります。
『筑前国続風土記』に「昔此地に釜を鋳る良工数家あり。下野国天明釜よりなほ精巧なり。其鋳物師は太田氏、朝廷より受領の官を給はり、蘆屋釜とて天下に其名いちじるし。蘆屋の向、山鹿の里に居たりし故、山鹿左近丞と称す。天正の比より漸衰て、長政公入国し玉ふ時、なほ其工人の家ありといへども、其職人ども皆賎工となり、其後に家絶たり。其末裔は博多姪浜に移り、近世は博多に在りて良工なり。やゝ古にも及ぶべし。土産門に詳にしるす。」「昔より此国遠賀郡蘆屋里に鋳物師の良工有。元祖は元朝より帰化して上手なりしかば、菊桐の御紋の釜を鋳て禁中に捧げ、山鹿左近掾と称せらる。本姓は大田なれ共、蘆屋の山鹿に居住せる故山鹿と称す。世に菊の釜、桐の釜とて、茶人の珍とするは此釜より起れり。上野国天命釜も名産なれ共、蘆屋釜には及ばず。京江戸の釜匠も、蘆屋流に伝ふる引中心(なかご)と云精巧の法をしらず。彼左近丞が末、慶長年中長政公入国の比迄は蘆屋に在て、鋳工多かりしが、其後断絶し、遠孫ども博多或は姪浜に来て鋳る。其中に大田次兵衛と云物勝れて良工也。江戸京の鋳工におとらず。国君も用ひ給ふ。江戸、京、長崎、隣国よりも是を求て、新蘆屋と称す。また古の蘆屋釜に、雪舟が図する所間々有之。土佐氏画工の図も有。又鍋鋤鍬を鋳る冶工は博多に多し。其居所を金屋町といふ。其余の町にも住す。」とあります。
『雍州府志』に「中古於筑前葦屋里所鋳号葦屋釜、其所画之紋画、僧雪舟之所図者間有之、雪舟備中人也、去葦屋不遠、且雪舟応大内氏之招、而時々往来周防長門之間、冶工請之、使画釜之模範而鋳之、多有松杉或梅竹之図、是謂下画」とあります。
『茶湯古事談』に「芦屋釜は摂津国のあしやにてはなし、筑前国の芦屋にて鋳釜なり、雪舟の下絵を最上とせり、雪舟は石見の人なりしか、時々芦屋の辺を通りありしを、治工請して下絵をかきもらひしといふ、一説には大内家其頃威勢さかんなりしゆへ、芦屋の治工をよひ、雪舟をも招きて、絵かかせ鋳させしといふ、松・杉・梅・竹の類なり、其子孫あれとも中頃切支丹の族を釜入有し時に、其釜を鋳たりしより、茶人芦屋の新釜を好ます、故に今世はつねの鍋釜をのみ鋳て渡世すとなん」とあります。
『茶道筌蹄』に「蘆屋 筑前 明恵上人始て釜を命すと云ふ」とあります。
『箱崎釜破故』に「芦屋釜鋳り、非道の釜鋳立て候罪科に依りて、公儀より鋳物師永く御つぶし仰せ付けられ候也。浅野彦五郎釜煎り取り扱い候役人、残らず遠嶋仰せ付けられ候。」とあります。

     
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