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台目構
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台目構(だいめかまえ)とは、台目切(だいめぎり)の炉のかどに、中柱(なかばしら)を立て、袖壁(そでかべ)をつけ、隅に釣棚(つりだな)をしつらえた、点前座の構成をいいます。
台目構は、中柱と袖壁によって、点前座が客座から半ば隔てられる構成に特色があります。
台目構は、千利休が大阪屋敷の三畳台目で試みたのが始めとされ、『宗湛日記』に「次の間」「勝手の内」とあるのが、台目構の初見とされています。
台目とは、六尺三寸の丸畳から、台子の幅一尺四寸と、屏風の厚さ一寸の分を切のけた、残りの四尺八寸の畳で、台子の茶を草庵の小間に写したものといわれています。
台目の語は、利休の頃には単に何畳「半」といわれていましたが、古田織部の頃に「台目」といわれるようになったといいます。
台目切とは、点前畳の外の畳に、点前畳の中心線から上手にかけて炉を切ることをいいます。
台目切で、点前座が台目畳でなく丸畳の場合は、特に「上げ台目切」といい、点前畳の中央より上げて切ったようになります。
台目構は、利休が初めて試みたときは、袖壁が下まで付いていて、『宗湛日記』に「次の間」「勝手の内」とあるように、次の間で点前をするように見えたものと考えられています。のちに、客座から道具座が見えるように、袖壁の下方を吹き抜くようになったといいます。
道安囲(どうあんかこい)とか宗貞囲(そうていかこい)といわれる構えも、点前座と客座を中柱と壁によって隔て、火燈口が開き、襖が閉められるようになっていて、次の間で点前をする構成になっています。
炉が台目切のものを「道安囲」といい、炉が向切のものを「宗貞囲」といいます。
『南方録』に「中柱の右に炉をなしたるを台目切と云ことは、六尺三寸の畳の内、台子のはヾ一尺四寸と、屏風のあつみ一寸と、かきのけて、則その一尺四寸は、元来一尺四寸四方の風炉の座を、右の畳に出して炉を切たり。一枚だヽたみの内、台子の置目分切のけたるゆへ、台目切の畳、台目かきの畳と云なり。六尺三寸の内、向一尺五寸のつもりにてこれを除き、残て四尺八寸の畳なり。」とあります。
『宗湛日記』天正15年(1587)正月12日に「利休 御会。大阪にて宗湛。宗伝。深三畳半。四寸炉、五徳居。釜、霰姥口。鬼面床の向柱に、高麗筒に白梅入て。手水の間に取て。床に橋立の大壺を置て網に入。次の間小棚の下に土水指唐物也。同茶尻ふくらに入。井戸茶碗に道具仕入て土水覆引切。」、同14年12月21日朝会の「草部や道説御会。宗湛一人。深三畳。勝手の内に一尺程の小棚有。下に土の水指、共蓋。炉、箆被。環、貫弦鉄。棚には台天目あり。手水の間に四方盆に肩衝すへて。勝手畳の中に被置候。土水覆」とあります。
『茶譜』に「利休流に、座敷の畳一間に不足は、半畳に不限何れも半と云、或は一畳半、或は四畳半と云なり、依之何畳半の座敷に中柱を立た座敷と云、又は何畳半の小座敷に茶立所を付てと云、右宗旦曰、当代中柱を立て茶を立る、畳一間に一尺六寸ほど短を大めと云子細、曾て不聞届誤と云々、右当代は何畳大めとならでは不云、之も古田織部時代に、或は四畳半の圍に又中柱を立て、茶を立る所別に一畳よりも短畳を敷時、四畳半半とも難云ゆへ、大工共の心覚に云しを、其以後人毎に聞触て、歴々の茶湯者も大めと云なり、依之今は大めと云はざれば不聞受やうになれり」とあります。
『紳書』に「此頃迄は台目といふ名は定まりしにや、二畳半、一畳半のかこいなど有し、されど其弟子古織に至て、台目の名は出たり」とあります。
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