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五尺床

 

五尺床 大庵

五尺床 利休大坂深三畳台目「山上宗二記」
利休大坂深三畳台目 「山上宗二記」

五尺床(ごしゃくどこ)とは、床の間の間口による名称のひとつで、床の間の間口が五尺の大きさの床の間のことです。
珠光、紹鴎、利休と、床は一間の張付床というのが定法でしたが、晩年の利休が初めて床の間口を縮めることを試みたとき造られたのが、五尺床でした。
五尺床は、利休が還暦を過ぎた天正十年(1582)頃、堺から上洛して大徳寺門前の屋敷に四畳半座敷「不審庵」(ふしんあん)を造り、五尺床を試みます。しかし床壁は、まだ「張付壁」(はりつけかべ)と呼ばれる紙張りの壁でした。 ただ、鳥の子の白張紙ではなく薄墨色の紙を貼って侘びた体を表しています。
利休が天正十年(1582)造営を始めたとされる山崎の「待庵」(たいあん)も、川上如流が写した「明和数寄屋之図」妙喜庵囲の図に、床の巾が五尺(現在の床は四尺)とあり、復元された大徳寺瑞峰院の「平成待庵」は五尺巾の床の間となっています。待庵の床壁は、塗り廻しの土壁となっています。
天正十二年(1584)に席開きした大阪城の「山里の御座敷」ではないかともされる、『山上宗二記』の坪の内がついた「関白様御座敷」二畳敷の図も五尺床のようです。
利休が初めて台目構(だいめかまえ)を試みた大坂屋敷の深三畳台目(細長い三畳敷、宗易大阪之座敷)でも、床は五尺床でした。
天正十三、四年頃、大徳寺門前から二条衣棚に移った少庵が、二畳半の小座敷に四尺床を構えたのを見て、利休が四尺三寸床を試みるまでは五尺床が造られていたようです。

『逢源斎書』に「大徳寺門前に利休屋敷取被申候、先少庵、堺より上り被申、屋敷取テ、茶之湯少庵被致候、青竹ふた置なと其時被致候つる、堺よりめんよの数寄者上り申と京衆申候て、茶を皆望申候、其已後宗易上り被申候、不審庵と額打、四畳半之座敷被致候、是時初而たゝみ石被致候、さがの西方寺に在之、宗易見被申て之事也、其四畳半五尺床也、うすすみ色之紙に而皆はり付なり」とあります。
『神谷宗湛筆記』天正十五年(1587)に「十五日朝 一、塗や宗勺御会、宗湛、平三畳、五尺床」「二月廿日 一、鹽屋宗悦御会、平三畳、五尺床」「一、萬代や宗安御会 宗湛、二畳半、五尺床」とあります。
『山上宗二記』に「此二畳半之事、紹鴎之時は天下に一つ、山本助五郎と云人、紹鴎之一之弟子也、其人に好候て茶湯をさせられし侘数寄也」「床五尺」、「細長い三畳敷、宗易大阪之座敷移也、但し道具持、茶湯の巧者は仕也、侘数寄、初心なる茶湯には無用歟」「五尺床」とあります。
『茶窓陂b』に「紹鴎が四畳半は一間床なり、道安四尺三寸にちゞめし床を休師見て、是は一段よしとて、其後四畳半を建し時に、四尺三寸の床になせしより、今も多くはこれにしたがえりとなん」とあります。
『江岑夏書』に「少庵、二条大やしき在之候、大甲水の時、京に釜座のつきぬけ、衣の棚へつきつけ被成候時、かまの座のつきぬけ、少庵屋敷の中をつきぬき申候、其替やしきに、唯今のやしき替地に取申候、徳善院の時、其二条に而やしきに二畳半の小座敷被致、床は四尺にいたし、ふるいゝ宗易を座敷之開に呼被申候、易きけんよく御座候、扨、門前へ易御帰候て、そのまゝ大工呼て、床を四尺三寸しめ被申候事」とあります。
『天王寺屋会記』天正十二年(1584)に「同正月三日朝 山里ノ御座敷開 秀吉様之御会始也、宗易、宗及」とあります。
『山上宗二記』に「二畳敷の座敷、関白様に有、是は貴人か名人か、扨は一物も持す侘数寄か、此外平人には無用也」とあります。

     
外観  天井    出入口
     
    台目構  水屋

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