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徐煕表具

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徐煕表具
徐煕表具(じょきひょうぐ)とは、村田珠光が足利義政から拝領した中国五代の画家徐煕(じょき)筆の白鷺の絵に施したと伝えられる、一文字(いちもんじ)無しの佗び表具のことをいいます。
徐煕表具は、天地が茶色の本絹、風帯と中廻が珠光緞子、露は紫、一文字は省かれており、軸は撥軸となっていたといいます。
徐熙は、中国五代南唐の画家。金陵(江蘇省)の人、一説には鐘陵(江西省)の人。花鳥画をよくし、墨の濃淡を主体に淡彩を添える手法により、孫(一説には子)の徐崇嗣(じょすうし)とともに徐氏体の創始者とされる。生没年未詳。
徐煕筆鷺絵は、松杢肩衝、存星盆と共に、珠光から弟子の古市播磨(1452〜1508)に伝わり、古市播磨から弟子の奈良の塗師松屋源三郎久行に渡り伝世し「松屋三名物」と喧伝されましたが、安政頃大阪の道具商道勝こと伊藤勝兵衛方に入質されたものの請け出されずに、存星盆は若狭酒井家、松屋(松杢)肩衝は薩摩島津家に入りましたが、鷺絵のみは行方が分からず、松屋肩衝と共に島津家に納まり明治十年西南の役で焼失したという伝説もできました。

『今井宗久茶湯日記抜書』永禄十三年(1570)二月廿八日昼(松屋)源三郎会に「一 鷺の画、徐煕の筆、珠光より伝来の由、絹の内、長さ三尺三寸二分余、よこ一尺七寸、表具、上下茶ほけん、中むくのみ色とんす、風帯中と同しとんす、一文字なし、露紫」とあります。
『山上宗二記』に「徐煕鷺絵 奈良漆師屋 右一軸は珠光昔所持也、数寄道具也、着色、綃に書候、紹鴎、道陳を始て古人褒美を為絵也、但し代は百貫計と紹鴎申候、此一軸に猶以在口伝」とあります。
『神谷宗湛筆記』に「一 塗や源三郎御会。奈良にて。宗湛。四畳半。六尺床に白鷺の絵始終掛けて。(中略)絵の事。絹の内竪三尺四五寸。横一尺六七寸。白鷺二ツ。蓮葉二ツ。印三ツ有。内二ツは左の方に上下に有、同下之印そと大也。右の上に一ツ。皆一寸三分程の印也。上下茶。中風帯小紋濃浅黄の緞子。露紫也。一文じなし、はち軸くはりん。筆者徐煕也。又は月山と云人も有如何。」とあります。
『茶道筌蹄』に「徐煕表具 宋朝製の寸法の一文字をさりしなり、珠光好と云ふ」とあります。
『槐記』に「奈良の菊やが所持の徐煕が鷺の画の掛物、これは天下の名物なり、毎度三菩提院殿の見て置へしと仰にて、見侍べりしが、如何さまにも又類あるましく見事のものなり」とあります。
『土門左文由緒茶器傳来』に「鷺絵掛物之事 一、鷺絵一軸は名画名切之故而已を以称美仕候に而は無之此一軸に珠光茶道之極意を込発し候故を以天下随一之名物に罷成候旨申之候、珠光之好之表具は公方様御物之圓悟之墨蹟表具と此鷺絵之表具と只天下に二幅斗に御座候皆申之候。一、鷺絵絹地極彩色 画工 徐煕 水中に鷺二羽、鷺之際と四ヶ所に海松之如くに相見へ申候、水藻在之鷺之右方と下とには拍子草と申唱候、水藻之葉八枚在之鷺之右方と下とに白梅より少大輪成花二輪在之此花を未(ひつじ)花と申唱候由未時に花開候故申唱候旨申之候、鷺之右方に荷葉之類之葉二枚有之但一枚は開葉一枚は巻葉に而御座候。徐煕は金陵之人、宋朝之上々之絵之由申之候。一、表具之事 上下之絹北絹(北絹は極上之絓之由申之、北之字ほと下略仕唱候由)。此北絹は、公方様之御物圓悟之表具上下之絹と同切に而候由申之候。中之絹を珠光緞子と申候由、地紋凡三歩程宛之茶色宝尽、地むくの実色(紺青之如く之色合に相見へ申候)、天下無類之緞子之由申之候、元来慈照院右大臣義政公御道服之切に而珠光拝領仕候珠光緞子と唱候由申之候。風帯之絹中之絹と同断、但露紫色。一文字は無之候、但一文字無之表具此掛物珠光始申候より相始申候由申之候。軸は花櫚之撥軸に而御座候。表具は珠光好に而御座候由申之候。細工は能阿弥作之由申之候。」「一、右之絵は東山御物に而御座候処珠光江被下之候、其後珠光茶道随一之弟子古市播磨澄胤申人江相伝有之候、右澄胤茶道弟子私先祖久行と申者、茶道執心深く御座候故、鷺絵並珠光指図之四畳半之座鋪其外茶器品々茶道故実等不残致相伝、夫より已来代々相伝只今迄八代に相成申候」とあるといいます。
『土門源三郎所持三種伝来記』に「鷺絵掛物之事 一、鷺絵 宋朝之上々筆 徐煕画。徐煕は金陵の人、絵師にては無之、絵師の書きしは書院物に而茶掛物とは不成、古実有之。右鷺絵は東山殿(尊氏八代義政公、慈照院)御物也、珠光へ下され、其後珠光之高弟古市播磨澄胤に相伝、夫より澄胤高弟久行へ鷺絵並に茶器品々、茶道古実不残相伝之、珠光差図の四畳半座敷も相伝之候、尤も鷺絵一軸名画名物之故而已を以ての称美にては無之、此一軸に珠光茶道の極意を籠め置き候口伝の仔細有之、天下随一之名物に成、珠光好表具に而能阿弥細工也、公儀御物円悟の墨蹟表具と此鷺絵表具と天下に二幅斗之由申伝候。一、紹鴎、利休は珠光に〓鷺絵を見、珠光数寄之起を悟道す、鷺絵を見て合点いたし天下之数寄を我物と合点不致内は未熟と利休申候由申伝候。一、鷺絵掛物寸法 惣長六尺一寸一分、横二尺一寸九分、表木より中の際迄一尺四寸四分、下中の際より軸迄六寸二分半、中上の幅四寸七分、中下の幅二寸五分、両脇の絵絹際より端迄二寸四分宛、風帯幅一分、掛緒三所、軸出八分、小口差渡一寸、絵絹(長三尺三寸二分半、横一尺七寸)。一、水中に鷺二羽彩色 鷺の際と上下と四所に海松のやうなる水藻、鷺の右方と下とに土拍子草と唱水藻八葉、鷺の左と下とに白梅より少し大輪之花二輪、此花を未花と唱未時に花開故也、鷺の左方に荷葉之類二葉二(一葉は開、一葉は巻葉)。上下の絹、北絹(ほけん)、北絹は極上のしけ、北の字クの声を略してホと唱、此絹公儀御物円悟の表具上下共同切なり。中の切、珠光緞子と云、地紋凡三歩程宛の茶色の宝尽、地ムクの実色、紺青の如き色合なり、天下無類の緞子の由、東山殿御道服にて珠光拝領故珠光緞子と唱、風帯、中の絹と同断、但露紫色。一文字なし、一文字なしの表具は珠光此掛より始、軸 花櫚撥軸。一、外題 能阿弥筆表 白鷺縁藻図 徐煕筆 但 白紙に認め張付有之。」とあるといいます。
『利休居士伝書』に「千宗易へ今度之為御礼堺へ久政参に。鷺、紹鴎より御伝授の條々、鴎は光より直伝といふ事。一軸の口伝知たる人世に不可有に、易は鴎より伝授して知りたるぞとなり。総沢の事、かきのこす芦之事、光数寄の根元をあらわさんが為に赤銅作にする事口伝、一文字を抜口伝の事、一文字を抜初の事、不洗絹紫に染る口伝の事、讃なき事、筆の軸口伝之事、金襴に太布をつぐ口伝之事、右参得するならば天下無双の数寄の事、天下の絵讃皆捨て無一幅ならでは数寄に不出の事。右條々ひそかに云て、此意旨を千宗易久政に御伝授なり」とあります。
『松屋名物集』に「圓悟墨蹟 末後に是を掛し也、中茶へいけん(平絹)、上下きへいけん(黄平絹、「あさぎへいけん」としたものもあり)、一文字風帯紫地印金、露紫、珠光表具也、宗珠へ」「白鷺 徐熙筆、珠光表具、一文字なき開山なり、播州へ」とあります。
『茶事謾録』に「鷺之絵は絹地極彩色たるにより御物の時は勿論金襴の中上下は緞子象牙軸にて結構之表具に而御座候所、珠光拝領之後は絵之体を感心に而茶道之極意を後世に残さんが為表具を改め全体赤銅作りと申仕立にて御座候、初而一文字を抜き、軸も花櫚に改りし、画と表具に茶道之極意を残し置申候、武野紹鴎は珠光と時代相隔りして珠光之茶道を続き道統を被得候而鷺之画見参之上にて珠光之数寄を大悟被致候、紹鴎より利休、利休より古田宗屋、小堀遠州、細川三斎公迄数寄道伝授して右鷺之絵悟道を以て相伝有之御事と申伝へ候、夫より利休は鷺之絵とは不被申和尚と被申候由に而御座候、右之訳合故其時代茶湯達人と申候は大方私共へ来訪一軸所望仕候」とあるといいます。
松屋元亮の『茶湯秘抄』に「絵に十分したる物は面白からすとて珠光好て一文字を抜たる也、一文字を抜く事の始なり」とあるといいます。

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