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西村家

西村九兵衛 西村弥一郎 西村道弥 西村道也 西村道爺

伝西村道仁 重餅 北村美術館蔵

西村家(にしむらけ)は、西村道仁を祖と称する釜師の系譜です。
西村家は、一般的には千家出入の釜師であった、西村道弥、西村道也、西村道爺の三人の系譜を指します。
西村道也が著した『釜師之由緒』が、慶長(1596〜1615)以降の京作の釜師として挙げた十名のなかに、西村を称するものは、弥一郎、弥右衛門、九兵衛、弥一郎道弥の四名があり、弥一郎が弥一郎道弥の父であると同書にあるところから、この弥一郎をもって西村家初代とするのが現在一般的となっています。
西村家は、初代西村弥一郎、二代西村道弥、三代西村道也、四代西村道爺となります。
西村弥右衛門と西村九兵衛は、西村道弥家とは別家らしく、西村弥右衛門は明治十二年『由緒鋳物師人名録』に京三条釜座居住の鋳物師として名が挙がっているところから京でその家系が続いていたらしくみえ、西村九兵衛は『茶道筌蹄』に「道彌親類、元伯時代一代也」とあるところから、西村道弥の縁戚で一代で途絶えたらしくみえます。
西村家の系譜とされるものは複数あります。
名越昌孝が著した『鋳家系』では、西村家の初めに九兵衛を置き、九兵衛を道仁の子で幼時に父が死去したため名越浄味の弟子になったとし、九兵衛の次に道弥、道也、道爺の三人が続き、次に道爺・弥三衛門・名了真・大阪在住とあり、続いて道也、道也、弥三衛門となっています。
『西村道仁家系』では、道仁を初代とし、二代与四右衛門(大仏殿鐘鋳御手伝す、和泉小掾に任す)、三代弥一郎、四代道弥、五代道也、六代道爺、以下十三代道爺の明治に至るまで掲載しています。
『釜師系譜』では、西村道仁を初代とし、二代西村九兵衛家久、三代西村与四右衛門宗之(道運、和泉小掾)、四代西村弥市郎(道有か)、五代西村弥三右衛門吉利(道弥)、六代西村弥三右衛門孝知(道也)、七代西村弥三右衛門知儀(道爺)、八代西村妙秀蘭女(尼道也)、九代西村弥三右衛門了真(七代道爺の弟子、初め平兵衛後に九代を継ぎ弥三右衛門と名乗る)、十代西村弥三右衛門、十一代西村弥三右衛門、十二代西村道仁(初め道也と号し、後に道仁と改む。東京住)、十三代西村道弥(大川信為入りて養子となる)となっています。 この系統の系譜では、道爺の次に道爺の娘あるいは後家を置き、それに弟子筋の者が続いていますが、女筆の極めを出したことが記されており、弟子筋の者が釜作をしたものに、道也として箱書をして出していたたもののようにみえ、そのために尼道也と称されたもののようです。

『釜師由来』に「一京作。名越彌右衛門 元祖浄味事 古織部公御釜師、慶長年代。安見予兵衛 法名道有。西村彌一郎 道彌父カ。名越浄正 飯田助左衛門 小堀遠州公御釜師。西村彌右衛門 元祖道三事。西村九兵衛 宗旦釜師。西村彌一郎 元祖彌一郎の子 道彌也。湯浅嘉右衛門 宗和釜師 元祖宗逢事。五郎左衛門 元祖浄清事。右浄清は遠州公、宗旦、宗和末の時代なり。三人の物数寄衆申付る釜師にはあらず。」とあります。
『茶道筌蹄』に「道彌 道清の弟子すじ大西彌一郎と云ふ、此間に道運道有あり、つまびらかならす」「道也 道彌の子也、彌三右エ門と云ふ、後道冶と改む」「道爺 道也の子也、彌三右エ門と云ふ、原叟の時代より如心斎へかヽる、百佗達磨堂は原叟このみ、累座富士は如心斎このみなり」「九兵衛 西村九兵衛といふ、道彌親類、元伯時代一代也」「釜の箱の事 浄味浄元はモミのタテメに書く、寒雉は桐の立目、道也はモミの横メ、道爺一代桐の横目、いつれもサン蓋」とあります。
名越昌孝の『鋳家系』に依った『茶家酔古襍』の「鋳冶略系」に「九兵ヱ 西村氏、名家久、名人、道仁の子、幼少の時父道仁死去、これに依て浄味の弟子となる、宗旦時代上手、品方釜、裏鏊、蒲団、累座、唐犬、土斎。」「道弥 初弥一郎、後弥三右ヱ門、名吉利、道仁の子、江岑時代、上手」「道治 初弥一郎、後弥三右ヱ門、名孝知、道也と号す、後道治と改む、原叟時代、上手、鳳凰風炉、百侘、少庵巴蓋」「道爺 弥三右ヱ門、名知義、如心斎時代、上手、達磨堂、富士、累座 口薄ルイサ」「道爺 弥三衛門、名了真、大阪在住」「道也 七右衛門、名某」「道也 初七右衛門後弥三右ヱ門と改む」「弥三右ヱ門」とあります。
『釜師双紙』に「俗名蘭女妙秀と云ふ、此女目利者にて女筆の極めを出す、祖父道冶之風を写す」「明和之比暫仲間へ預り弟子相続す」「当時道爺の弟子初七左衛門後弥三右衛門を九代目とし、次に平兵衛を養子とし十代目として弥三右衛門と称す」とあるといいます。

     
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