茶道茶道の道具水指和物土物 > 京焼

京焼水指

古清水 頴川 木米 仁阿弥 保全 六兵衛

色絵麒麟菊花文水指 伝奥田穎川造 東京国立博物館蔵

京焼(きょうやき)は、江戸初期以降、京都で作られた楽焼以外の陶磁器の総称です。
京焼は、もっとも古いものは粟田口の窯とされ、遅くとも近世の初め、慶長年間(1600年前後)には開窯されており、江戸初期すでに粟田口、八坂、音羽、清水、御菩薩(みぞろ)、修学院、清閑寺、押小路などに窯があり、唐物や古瀬戸、御本(ごほん)、呉器、伊羅保などの写しを作っていたようです。
京焼の名が文献に現れるのは博多の茶人、神谷宗湛(かみやそうたん:1551〜1635)の「宗湛日記」慶長十年(1605)六月十五日宗凡会の条に「肩衝 京ヤキ」とあるのが初出とされます。
初期の京焼(粟田口焼、清水焼、音羽焼、修学院焼等)は、今日ひとまとめにして「古清水」と総称されています。
京焼の存在がおおきくなるのは、京焼の祖といわれる野々村仁清(ののむらにんせい)の御室焼(おむろやき)の出現により、仁清は轆轤の妙による瀟洒な造形と大和絵、狩野派、琳派風などの華麗な色絵賦彩による色絵陶器を焼造し、その作風が粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や、洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯に影響を与え、それまでの「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、数多くの後世「古清水(こきよみず)」と総称される色絵陶器がつくられるようになり、京焼といえば色絵陶器とするイメージが形成されました。
また、仁清の弟子、尾形乾山は、兄光琳の絵付や意匠になる雅陶を製作し「乾山焼(けんざんやき)」として広く知られました。
京焼は、19世紀初頭の文化・文政期には、奥田穎川よって磁器が焼造され、青花 (染付) 磁器や五彩 (色絵) 磁器が京焼の主流となっていきます。
穎川の門下には青木木米、仁阿弥道八、 欽古堂亀祐、三文字屋嘉介らがあり、他にも永楽保全、和全の父子や清水六兵衛、三浦竹泉等々の名工を輩出しました。

『青蓮院旧記』に「青蓮院御家之領内、山城国愛宕郡栗田口三条通蹴揚今道町え、寛永元年の頃。尾張国瀬戸と云所より、其性しれざる焼物師、三文字屋九右衛と申者、栗田口之里へ来り居住し、専ら茶器を焼弘め候由」とあります。
『古今和漢諸道具見知抄』元禄七年(1694)に「一、粟田(アハタ)口焼 △茶入 △茶碗 其外品々有、茶入は土薬なり、かっこう唐物ひたち帯によく似たる物也。一、御室焼(ヲムロヤキ)物 西山のふもと仁和寺(ニンワジ)の邑(サト)なり △薄(ウス)茶の茶碗 △水さし △水こぼし △香炉(カウロ) 人形鳥獣の類迄いろいろの作物有。一、清水(キヨミツ)焼 右同断。一、黒谷(クロタニ)焼 右同断。一、押小路(ヲシコウヂ)焼 右同断。何も京焼(キヤウヤキ)也。」とあります。
『陶工必用』に「京都押小路柳馬場の東に押小路焼物師一文字屋助左衛門と云者、唐人相伝之方を以内窯焼之陶器を製す。楽焼之祖朝次郎より旧き由申伝へ共何れか先なる事不存候」とあります。
『陶器考附録』に「京都焼物初り書 一、焼物は元南京より渡り候ひせんに焼出し今宝暦九年迄二百世成ると承候、夫より京都にて肥前焼売出し候蔵元つほ屋市左衛門と申仁、其家手代弥兵衛・九朗兵衛と申兄弟遣ひ被居、此弥兵衛を京三條通河原町東角に右店出し付致売出し候、後此九郎兵衛に見世渡し被申、其手代六兵衛と申遣ひ居被申候、是京都にて焼物商売の初めなり、今宝暦九年迄四代なり」「京焼物初め之事 御室に仁清と申内焼師御座候、後仁和寺之仁之字被下、清兵衛に仁之字を付仁清と申候、先祖九郎兵衛相談致し、京焼と申焼出し申候、其弟子に庄左衛門・助左衛門と云者押小路えお焼物致し、是を押小路焼と申候、夫より弟子徳右衛門と申、其子六郎兵衛、孫伊三郎。三郎右衛門と申今二代。市郎兵衛と申今二代。清兵衛と申者清水に有之一代切。五條音羽屋六郎左衛門子三人。亀屋五郎兵衛庄左衛門弟子やうし。音羽屋宗左衛門 源助 源十郎是より大きになり候」とあります。
『本朝陶器攷證』に「青蓮院御家領之内、山城国愛宕郡粟田口三條通蹴揚今道町江、寛永元年之頃、尾張国瀬戸と云所より、其性しれざる焼物師三文字屋九右衛門と申者、粟田之里へ来り居住し、専ら茶器を焼弘め候よし、夫より前、同町に陶工之者有無、段々探索いたし候共不詳、九右衛門関東江御召御茶碗御用相勤候ハ、三代将軍御治世中ニ候得共、旧記等無御座、初発年月不相分、同人陶工焼窯者、同町南側人家之裏、字華頂畑と云所ニ在、此窯連綿、当時同町焼物師一文字屋佐兵衛所持仕り、焼続き申候」とあります。

     
頴川  木米  仁阿弥  保全 

茶道をお気に入りに追加