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古清水水指

古清水 頴川 木米 仁阿弥 保全 六兵衛

古清水 色絵桜柴垣文水指

古清水(こきよみず)は、一般的には、野々村仁清の御室焼、乾山焼、幕末の個人陶工のものを除いた、東山山麓に散在する窯で焼かれた京焼陶器をいいます。
古清水は、狭義には、仁清以降の江戸後期頃までの京都で作られた無銘の色絵陶器の総称として用いられますが、広義には、無款のもののほか、「清」「岩倉」「京」「清閑寺」「清水」「粟田口」「粟田」「御菩薩池」「藤」「長」など印捺されたもの、色絵ばかりでなく、染付、銹絵、焼締陶など磁器誕生以前の京焼陶器を指すものとしても用いられています。
古清水の名は、天明年間(1781〜1789)に奥田穎川(おくだえいせん;1753〜1811)が京焼で初めて本格的な磁器の焼成に成功し、清水や五条坂の窯で盛んに磁器が焼かれるようになると、それらが「清水焼」と呼ばれるようになり、それ以前の焼物を区別するために「古清水」の名が現れます。

古清水 冠形耳付水指 伝修学院焼 滴翠美術館蔵  古清水 野神焼 片身替筒水指 滴翠美術館蔵  古清水 銹絵寒山拾得図水指
伝修学院焼冠形  野神焼筒水指  銹絵寒山拾得図
古清水 修学院焼 彫三島写耳付水指 滴翠美術館蔵  古清水 御菩薩焼 銹絵染付雷文水指 滴翠美術館蔵  古清水 粟田 阿蘭陀写手桶水指
修学院焼彫三島写  御菩薩焼銹絵染付  粟田阿蘭陀写手桶

『青蓮院旧記』に「青蓮院御家之領内、山城国愛宕郡栗田口三条通蹴揚今道町え、寛永元年の頃。尾張国瀬戸と云所より、其性しれざる焼物師、三文字屋九右衛と申者、栗田口之里へ来り居住し、専ら茶器を焼弘め候由」とあります。
『古今和漢諸道具見知抄』元禄七年(1694)に「一、粟田(アハタ)口焼 △茶入△茶碗其外品々有、茶入は土薬なり、かっこう唐物ひたち帯によく似たる物也。一、御室焼(ヲムロヤキ)物 西山のふもと仁和寺(ニンワジ)の邑(サト)なり △薄(ウス)茶の茶碗△水さし△水こぼし△香炉(カウロ)人形鳥獣の類迄いろいろの作物有。一、清水(キヨミツ)焼 右同断。一、黒谷(クロタニ)焼 右同断。一、押小路(ヲシコウヂ)焼 右同断。何も京焼(キヤウヤキ)也。」とあります。
『陶工必用』に「京都押小路柳馬場の東に押小路焼物師一文字屋助左衛門と云者、唐人相伝之方を以内窯焼之陶器を製す。楽焼之祖朝次郎より旧き由申伝へ共何れか先なる事不存候」とあります。
『陶磁製法』に「内窯焼陶器之事 異朝之人より、相伝候方之由、承及候。最初京押小路高倉に、一文字屋助左衛門と申候者之家伝に而、数代焼候。楽焼其外粟田口、清水坂、又は御室仁清焼、京北御菩薩池焼などより前に焼始め候由、其余流、今以交趾焼を写たる器物、花樹生類等を地紋に堀り、緑色黄紫之色絵を付たる器有之候」とあります。
『陶器考附録』に「○御菩薩焼 御そろやきは仁清時代にて作は違へり、仁清みそろ池の土にてやきたるをみそろやきと云に混したるなり。○粟田焼 元和寛永の頃、九右衛門と云もの専ら西洋風の焼ものを焼く、是粟田焼の初といふ、其比の土取道を今に九右衛門の図子と云、錦光山、宝山、帯山、東山なと云はかまの名にて焼人の名にはあらす。一百五十年前采石山と云者あり、能く高らいものを写す、(采石山)の印あり、無印のものは高らいに見まかへり」「○清水焼 慶長の頃より焼初む、西洋及南蛮の風を写す。○清閑寺焼と云ものは歌中山清閑寺の僧焼たる由、されとも聢としたる証なし。○清兵衛 海老清と云 清水にて茶具を焼たる初なり、潁川六兵衛ら此人に陶法を学ふ。」 「京都焼物初り書 一、焼物は元南京より渡り候ひせんに焼出し今宝暦九年迄二百世成ると承候、夫より京都にて肥前焼売出し候蔵元つほ屋市左衛門と申仁、其家手代弥兵衛・九朗兵衛と申兄弟遣ひ被居、此弥兵衛を京三條通河原町東角に右店出し付致売出し候、後此九郎兵衛に見世渡し被申、其手代六兵衛と申遣ひ居被申候、是京都にて焼物商売の初めなり、今宝暦九年迄四代なり」「京焼物初め之事 御室に仁清と申内焼師御座候、後仁和寺之仁之字被下、清兵衛に仁之字を付仁清と申候、先祖九郎兵衛相談致し、京焼と申焼出し申候、其弟子に庄左衛門・助左衛門と云者押小路えお焼物致し、是を押小路焼と申候、夫より弟子徳右衛門と申、其子六郎兵衛、孫伊三郎。三郎右衛門と申今二代。市郎兵衛と申今二代。清兵衛と申者清水に有之一代切。五條音羽屋六郎左衛門子三人。亀屋五郎兵衛庄左衛門弟子やうし。音羽屋宗左衛門 源助 源十郎是より大きになり候」とあります。
『本朝陶器攷證』に「青蓮院御家領之内、山城国愛宕郡粟田口三條通蹴揚今道町江、寛永元年之頃、尾張国瀬戸と云所より、其性しれざる焼物師三文字屋九右衛門と申者、粟田之里へ来り居住し、専ら茶器を焼弘め候よし、夫より前、同町に陶工之者有無、段々探索いたし候共不詳、九右衛門関東江御召御茶碗御用相勤候ハ、三代将軍御治世中ニ候得共、旧記等無御座、初発年月不相分、同人陶工焼窯者、同町南側人家之裏、字華頂畑と云所ニ在、此窯連綿、当時同町焼物師一文字屋佐兵衛所持仕り、焼続き申候」とあります。
『観古図説』に「仁清は二代三代有と世俗には云へとも一代限りなり、二代三代作と見ゆる物は多く清水粟田等の陶工の贋造なり。○金青赤黒等の画付の始は慶長以後椀人と称せし人と仁清等なり、此時代諸窰共陶器進歩する多し」 「○洛東、洛北、御菩薩、仁和寺、御室、岩倉、錦光山、清閑寺、音羽、粟田、(明石)等の印の有る古陶を近世奸商等か仁清作とて高料に売れり、全くの偽詐なり、洛東は粟田辺の陶工の印にて仁清比の人なり、洛北は御菩薩辺の陶工の印にて是も仁清比の人也、(御菩薩)は同地の陶工の印にて亦仁清同時の人也、粟田村の陶工宝山は近来此印を取持用るなり、仁和寺及ひ御室等は仁和寺村の陶工の印にて仁清後の人也、(岩倉)は岩倉の陶工の印にて仁清同時の人也、(岩倉山)と云ふ印は近来の粟田村の陶工錦光山か用る所なり、錦光山は粟田村の陶工の印にて仁清後の人也、清閑寺は清閑寺辺の陶工の印にて仁清比の人也、近来又(清閑寺)の印を用る人も有り、(音羽)は音羽の陶工の印にて仁清同時の人也、近来此印を用る人も有るなり、(粟田)は粟田の陶工の印にて仁清同時の人也、明石と云は明石の陶工の印にて仁清同時の人也」 「粟田焼の始めは慶長の末元和の比にて初代は九左衛門にて仁清同様の焼物なり、籃画渋画等にて引続き色画を付たり、粟田と云文字の印有る、仁清作とも見ゆる小皿にに画は籃及ひ渋色にて画有るものを見る、全て仁清に引続く時代の物なり、土と云薬と云仁清策に似る、後に至りては土と云薬と云鶏卵色にて後程次第に柔に也、細き環瑶あり」 「清水焼の初めを京焼と云なり、永正の比に渋谷小松谷清閑寺焼き等何れも清水焼きと称す、初代は音六音羽屋九七等也、又音羽焼とも云ふ、何れも仁清同様の作にて只薬り薄く懸り環遥至て細かにて肌相美なり、初めの作は青及ひ渋色の画なり、又金青黄緑赤黒等の画付の始めは慶長後椀人と云人並に仁清等なり、中にも銀青緑色は薬り厚し、金赤黒等は薬り薄し、又青並に渋色は是亦水薬りなり」、 「岩倉焼きの始祖たる者は仁清の門人にて同所の土器窰に於て習得たる土器加銹を製す、全く仁清作と同し、(岩倉)の印を用う、此印を世には仁清か岩倉の窰に於て造る物に用うると云へ共非なり、此窰に於て仁清か作りそことも有れとも亦仁清の印を用いたり、且つ岩倉焼きは間もなく絶へたるか此後の製を見す、又(岩倉山)の印有る新しき物を見る、之れは粟田村の陶工錦光山なる者近来用いし印なり。○岩倉は平安城より丑の方にて二里を去る、土人の説に窰跡今に残れりと云ふ。○仁清は平安城より乾の方にて一理を離るヽ仁和寺村の住人にて時代は慶長より万治の比迄生存せりと思はる。○万治元年は今を去ること二百年前に当る。○岩倉焼きに艶美なる者は未た見す、然れ共形と其模様は雅到有ること仁清作に同し、吉益氏の蔵品なる物の箱書付絵皿十、二条在番の節調へ宝暦五年何月堤某と書付たるを見れは此時代迄窰の有る様に思はる、堤は徳川家の旧臣下たる新庄某の用人なりと云ふ、此絵皿は全く仁清作に見へて少し若かく(岩倉)の印あり。○宝暦五年は今を去ること百廿三年前に当る。○粟田村は平安城より東にて六七丁を離る。○錦光山は元岩倉の陶工にて岩倉の印を用ひ、後粟田村へ移りて錦光山と号を改め、近来又古へをしたひて岩倉山の印を並ひ用いたるものと思はる、今に粟田村に於て陶器を作り来りて錦光山宗兵衛と云ふ。」 「御泥池(みぞろ)焼の始めは源助にて仁清の門人なり、御泥池の土器窰に於て習得たる土器加銹を製す、御菩薩(みぞろ)の印を用う、世には此地に於て仁清か作りし物の印なりと云へ共非なり、此窰に於て作ること有れとも亦仁清の印を用うるなり、御泥池焼きは渋画籃画にて若松柴垣熊笹等の画多し、仁清作と同一にして雅作なり、至て美なる物は未た見す、此窰間もなく中絶す、又若き物に右の印ある者は粟田村の住人宝山の作にて近比古を慕ふて御菩薩の印を宝山の印とを並ひ用う。○松ヶ嵜の西南御泥池あり、此処も亦加茂の神地なり、此水多く濁り故に御泥池と云ふ、又洛内外六地蔵之に随ふて此村にあり、故に或節御菩薩池と云ふ、平安城より丑の方にて一里を去る。」 陶器之部七に「清水焼 清水焼は元和頃より三年坂の前後に新窰を築き仁清同様の玉子手を製造す、之れ全くの清水焼なり、一書には慶長頃とあり、清水の印あり、仁清も元は此地に住す、其後明暦とはなれり。○海老屋清兵衛と云工人あり、京保の頃なり、此者清水にて茶具を専ら焼き始めたり、潁川六兵衛等此人に陶法を学ふ、中古の名人なり、三年坂の下に住するものと思想せり、文久二年に当り此三年坂下の仁清窰の地に海老屋弥兵衛と云者住し、此東向ひに海老屋政次郎と云者の住居せし処を乾山傳七へ譲り渡して五条坂へ転居す」 「五条焼 五条焼は寛永の頃より始り麁器を製す、依て世に聞へす、享保の頃より音羽の陶工当所へ移りし後は旧の音羽の地には窰一ヶ所も無し、又元文の頃より清水の陶工も此五条坂へ移り始め自然と名工此地に集り各種の物を製す、天明の頃に潁川なる者石焼きを造り始め亀亭与兵衛道八等各之を作る。○(略)○音羽の陶工享保の頃五条坂へ転住し元の地名を以て家号とし音羽屋と之れより家名亮然たり、是れ迄は他人より音羽屋と称するも自分より称せさりしことなり。○清水陶工海老屋は文久二年五条坂へ転住す。○亀亭の氏は和気元大須の家臣にて呉服物を監督する役にて文政五年磁器を作り始む、亀塘は其舎弟なり、当時迄九代目にて印を用るは二代なりと云。○与三は氏を水越と云、淡路へ陶法を伝へに行きたることもあり、初代は六兵衛の初代より少々後にて三代目は今を去ること二十二三年前に死して後嗣絶ゆ。」 「粟田口焼 粟田口焼の始めは元亀天正頃と云、然れとも今少し古く思はる此時代には深草同様の土器に水薬を掛けたる物と思はる、徳川三代将軍の時より小林吉兵衛より年々取寄せられし茶碗又其後岩倉山よりも取寄せられたる茶碗を徳川氏にては御鷹茶碗と云へり、これ鷹野の節に用ひらる丶ものなるか故なり、此品は赤色の素焼に水薬を掛け土は粟田の日岡の土計りを以て作る、此品計りに限り土地にては粟田口焼と古へより今日に至る迄唱へ来れり、甚古雅の製なり、古への窰は粟田口に有りしより後は粟田へ自ら移る依て粟田焼とは云ふなり。」 「粟田焼 粟田焼の始めは慶長の末元和頃にて初代は九右衛門と云、仁清同様の焼物なり、玉子手に籃と渋薬とにて画を付る、今の製より固くして滑らかならす、粟田の印を押す物稀れにあり、其頃の土を取し所を今に九右衛門の辻と云、同所九丁目東小物座町に古窰あり、土地に手は大日山の窰とも云、十一段ありし所今は九段半あり、巾凡二間半、之れ前の粟田口焼の窰なりと思はる、其後九右衛門等も此窰へ来りて焼しことと推考せり、此窰を錦光山小林吉兵衛持伝へしか安政五年此窰号と氏を他人へ譲り渡し、今は安田吉三郎用い居る所七丁目分木町に古窰くづれ残れり、奥行七尺巾三尺、当時宝山所有す、宝山の元祖用うと云、其時代には工人各此窰を用ひたるものとも考ふ、当地は明暦の頃より椀久仁清等の功労にて錦手を焼き始め、天明の頃木米久太の名工ありて一層進歩す、赤画物又瑠璃薬の盛り上けにて唐草を画く物又堆朱並沈金彫等の物を造り始めたり、次に和蘭風の物も稀れに造ることあり、錦光山、宝山、岩倉山、東山等の窰の号を付る、何れも此地の名工なり。○(略) ○帯山は高橋与兵衛と云、一書に正保元年御菩薩より移ると見ゆ、又一書には承徳三年押小路より転住すとも見ゆ、未た其證を見す、時代は凡今より二百年余と思ふ、本地の者なり、粟田印及帯山の印を用う。 ○宝山は雲林院文蔵と云、近江国信楽黄の瀬の者なり、一書には御菩薩より移ると云、又一書には押小路より移るとも云、未た其證を見す、万治三年此地に窰を築き同十三年十二月十四日死○宝暦二年大和国生駒宝寺の比丘尼か窰の名を宝山と名付くることを進むるに依て宝山の号を付け始む、五代目文蔵の時に赤画並瑠璃薬の置き上模様及び堆朱沈金金彫等を作る、之れより以後代々作り且他人も作れり、文化四年十一月死す、其後和蘭写しの作も有り代々宝山の印を用う、当時は十一代目と云。 ○東山は服部忠兵衛と云、東山の印を用う、当時七代目と云、本地の者なり。 ○岩倉山 邑井楽と云一書に御菩薩より移ると云へとも其実は全く北岩倉より宝暦の頃粟田へ窰を移し依て元の地名を以て岩倉山と号す、印は岩倉山の三字を押す、此時より錦光山と同様の品を徳川氏より注文せしなり、以前三代将軍の時九右衛門の家より納めし物と云。○岩倉山は当地に於て陶工の山号を名つけし初めなるへし、之に対して帯山宝山錦光山東山等の号を各付けたれとも旧里の窰無き人々なれはかくは名付けしなり、東山は都の東の山なれはなるへし、錦光山は作る処の陶器錦の光りの如しと云の義、帯とは粟田の山を帯るの意味なり。 ○錦光山は小林吉兵衛と云、一に押小路窰の流れにて正保二年粟田へ窰を築く、一に元禄に本窰を築くと云へとも其証を何れや、宝暦二年より徳川氏より注文せし書付残る、之れより安政五年まて七代目なり、其注文は無地白の糸目茶碗、茶弁当用大小小形あり、黒の三時茶碗、薬用に用る物大小の形あり、紋付茶碗、廟所供具に用るもの一通り粟田口焼と云、糸目茶碗、鷹野に用る大小二通り有り銀ふくりん掛れるもあり、安政五年に至り此れより西の夷町の住人へ錦光山の号と小林の氏とを譲り渡して今は安田喜三郎と云者住せり、夷町の者は錦光山の号及小林の氏を譲り受て今は二代目にて小林宗兵衛と云、錦光山の印を代々用う。」とあります。

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