茶道茶道の道具水指和物土物京焼 > 木米

木米

古清水 頴川 木米 仁阿弥 保全 六兵衛

南蛮写双耳水指 青木木米造 東京芸術大学大学美術館蔵

木米(もくべい)は、江戸時代後期の京都の文人陶工です。
木米、青木木米(あおき もくべい)は、明和四年(1767)京都祇園縄手の茶屋「木屋」に青木佐兵衛の子として生まれ、幼名を八十八(やそはち)、字は佐平、通称を佐兵衛といい、木米は号で、他に青来、百六山(散)人、古器観、亭雲楼、九九鱗、木米、聾米(ろうべい)などとも号しました。
木米は、幼少の頃より篆刻・書画で名高い儒者高芙蓉(こうふよう;1722〜1784)の家に遊び、多くの影響を受け、銅器・玉・銭貨などの古器類に興味を持ち、書画や篆刻なども学んだようで、後には田能村竹田、頼山陽、上田秋成、村瀬栲亭など、当時第一級の文人雅客たちと交友を持ちます。
木米は、寛政八年(1796)絵師の中村鳳沖(芳中)の紹介で大坂の豪商文化人木村蒹葭堂(きむら けんかどう、1736〜1802)を訪ねており、そこで乾隆五十九年(1794)刊行され当時舶載したばかりの清の馬俊良(ば しゅんりょう)の編集した『龍威秘書』戊集第三冊第四冊に収められていた清の朱琰 (しゅえん)著『陶説』六巻を一見して初めて陶業を志したといいます。 その後まもなく粟田口に開窯すると、当時流行の煎茶器を焼いて忽ちのうちに評判をとったようで、享和二年(1802)刊の『煎茶早指南』には既に「左兵衛は、唐物をうつすに妙を得たるものなり」「左兵衛作からものうつし上品にてあたえも又貴し」と記されています。
書物により中国陶磁の知識を得て陶業を始めた木米は、陶法については、田能村竹田の『竹田荘師友画録』によれば奥田頴川(おくだ えいせん)に教えを受けたとあり、十六代宝山文蔵の『雲林院家系』によれば十一代宝山文蔵からも教えを受けたといいます。
木米は、中国古陶磁の作風を模しながら独自の風を持った、染付、赤絵、青磁、焼締、南蛮写、交趾写などによる煎茶器を主として焼きました。数は多くありませんが茶之湯道具も手がけています。
木米は、享和元年(1801)頃に紀州徳川家十代治宝(はるとみ)により紀州に招聘されますが、良土が見つからなかったため帰京したといいます。
木米は、文化二年(1805)青蓮院宮粟田口御所御用焼物師を許されます。 同年、京を訪れた金沢の町年寄亀田鶴山の招致により、同三年(1806)加賀国金沢に赴き卯辰山の平兵衛の窯を借り試焼しー旦帰京、同四年(1807)年再び同地に至り春日山に開窯しますが、翌五年(1808)金沢城炎上などもあって金沢を離れ帰京します。
木米は、『陶説』の翻刻を志し、文化元年(1804)官許を得て『陶説』を翻刻しましたが、誤りが多いのに気づき刊行せず、文政十年(1827)頼山陽に序文を依頼しますがこのときも刊行されませんでした。
木米は、天保四年(1833)没します。享年六十七。
木米の没後二年、頼山陽の序文「刻陶説序」と、巻尾に文政三年(1820)木米が筆写した『陶説』に添えて三河国奥殿藩主の松平乗羨に奉った書「上奥殿侯書」を付けた木米板『陶説』が、当時八歳の遺児周吉の名で天保六年(1835)公刊されます。
木米は、銘印は「木米」の大小の小判形印、「青来」の小判形印、「古器観木米製」「粟田聾米」「木米製」などの角印があり、書銘や彫銘には「聾米造」「九々鱗木米造」「百六散人木米造」「古器観製」「古器観木米造」など多様なものがあり、多くは共箱で「粟田陶工聾木米」や前記の様々な落款を書いています。

     
頴川  仁阿弥  保全  六兵衛 

『上奥殿候書』に「僕原非陶人。少遊於高需皮家。喜賞鑑古器。所謂古器者。銅器玉財錢貨之類也。凡此三者皆足以観世政之盛衰。雖其製造之精莫得的知。而就博古図諸書。其様式欵識。略可窺見焉。僕往年遊浪花。寓木蒹葭堂。始閲龍威秘書。其中有清人朱笠亭所著陶説六巻。読之有会於心。因乞写。謂我嬖書。欣誦不止。竊意鋳銭則有犯律之咎。彫玉則無昆吾之刀。冶銅器亦身不得与之倶寿。莫能目後人賞玩之時也。於是乎始有志陶業。三十年於比。然性質魯鈍。未覚一二之有得也。其功僅足以防饑凍耳。蓋陶製之有妙手。本邦古今乏聞其人。上古邈矣。唯当足利氏之時。有瀬戸四カ者。巧作苦窳器。伝称高手。今按其釉法。蓋学建油。而不能成者也。雖然。因其遺法。瀬戸一県焼造日用之器。其利博矣。次之。伊勢五郎太夫。嘗受豊臣氏命。而入朱明。在饒州浮梁県。製素肌玉骨青花器。伝技而帰。工造精妙。可入賞鑑也。又近世有仁和清兵衛。乾山尚古者。亦称名工。仁清者能用陶車造器。為当時茶家所貴重。惜其釉法曇色少沢耳。乾山者。学西洋器之釉法。不能成。而纔得作坏体而己。雖然。不惜費。不惜暇。且倣光琳画様。花紋頗雅。所以為人愛玩也。雖然。此等数人。皆可称名工也。蓋当時豊臣氏為権謀。而設茶道。故人人風偃。至弁置茶器。不惜高價。故彼輩尤為世所推。号称高妙。遂不復刻意於油法。而其法不伝後世。不足恠也。独有此陶説一書。実可謂陶家之良軌也。僕有欲公世之志焉。甲子歳蒙官許。而家刻之。然猶恐有謬差。深蔵筐笥。顧為其書。説古。説今。説器之数條。其考據正確。為斯業之亀鑑神冊。不誣也。独至説明二条。則不能不容觜矣。案笠亭者非陶人。数客浮梁。受聞陶冶之法而記之。故致此謬爾。然不可以寸瑕廃尺壁也。其人蓋隠君子。其高尚之素。就書中可概見己。参之奥殿侯長卿君。嘗嗜風流。自琴詩書画。至百技術。無不該通焉。来京師。護衛銅駝城。今茲四月任満東帰。先是。官務之暇。屡召小人。辱問陶製事。時蒙渥遇。今也臨祖。聊表獻芹之志。以嚮所得陶説原本。艸写一部而奉之。且略述陋見。併以録呈云爾。文政庚辰夏四月粟田陶工木米謹識」 (僕もと陶人に非ず。少にして高需皮の家の遊び、喜んで古器を賞鑑す。所謂古器とは、銅器・玉財・銭貨の類なり。凡そ此の三者は皆以て世政の盛衰を観るに足る。其の製造の精、的知し得る莫しと雖も、博古図諸書に就いて、其の様式欵識は、ほぼ窺い見る可し。僕往年浪花に遊び、木蒹葭堂に寓し、始めて龍威秘書を閲するに、其の中に清人朱笠亭著す所の陶説六巻有り。之を読み心に会する有り。因りて乞て写し、我が嬖書と謂ひ、欣誦して止まず。竊かに意うらく銭を鋳せんには則ち犯律の咎有り。玉を彫らんには則ち昆吾の刀無し。銅器を冶せんには亦た身これと寿を倶にするを得ず。能く後人賞玩の時を目する莫し。是に於て始めて陶業を志す有り。比に於て三十年。然れども性質魯鈍にして、未だ一二の得る有るを覚へざるなり。其の功たるや僅かに以て饑凍を防ぐに足るのみ。蓋し陶製の妙手有る、本邦古今の其の人を聞くに乏し。上古は邈たり。唯だ足利氏の時に当り、瀬戸四カなる者有り。巧に苦窳の器を作り、伝えて高手を称す。今其の釉法を按ずるに、蓋し建油を学びて、成す能わざる者なり。然りと雖も、其の遺法に因りて、瀬戸一県日用の器を焼造し、其の利博し。之に次いでは、伊勢の五郎太夫、嘗て豊臣氏の命を受けて、朱明に入り、饒州浮梁県に在て、素肌玉骨の青花器を製し、技を伝へて帰る。工造精妙にして、賞鑑に入る可し。又た近世、仁和清兵衛、乾山尚古なる者有り。亦た名工と称す。仁清は能く陶車を用ひて器を造り、当時の茶家の貴重する所なり。惜むらくは其の釉法曇色にして沢少なきのみ。乾山は、西洋器の釉法を学びて、成す能わず、纔かに坏体を作り得るのみ。然りと雖も、費を惜しまず、暇を惜しまず、且つ光琳の画様に倣い、花紋頗ぶる雅なり。人の愛玩するゆえんなり。然りと雖も、此等の数人は、皆な名工と称すべし。蓋し当時豊臣氏、権謀を為して、茶道を設く、故に人々風偃し、茶器を弁置して、高価を惜しまざるに至る。故に彼輩尤も世の推す所たり。号して高妙と称し。遂に復た意を油法に刻まず。而して其の法後世に伝わらざるは、恠しむに足らざるなり。独り此陶説一書有り。実じ陶家の良軌と謂うへし。僕世に公にせんと欲する志有り。甲子歳官許を蒙りて、之を家刻す。然れども猶ほ謬差有るを恐れ、深く筐笥に蔵す。顧うにその書たる、説古、説今、説器の数条は、その考拠正確にして、斯業の亀鑑神冊たること、誣せざるなり。独り説明の二条に至りては、則ち觜を容れざるを能わず。案ずるに笠亭は陶人に非ず、しばしば浮梁に客たり、陶冶の法を受聞してこれを記す。故に此の謬を致す。然れども寸暇を以て尺璧を廃すべからず。その人たるや蓋し隠君子たり。その高尚の素、書中に就いて概ね見るべし。参の奥殿侯長卿君は、嘗て風流を嗜み、琴詩書画より百技の術に至るまで、該通せざるなし。京師に来り、銅駝城を護衛す。今茲に四月任満ち東帰す。是より先き、官務の暇に、しばしば小人を召し、辱くも陶製の事を問はれ、時に渥遇を蒙り、今や祖に臨み、聊か獻芹の志を表し、嚮に得る所の陶説の原本を以て。一部を艸写して之を奉り、且つ陋見を略述して、併せて以て録して呈す。文政庚辰夏四月 粟田陶工 木米謹識)とあります。
『竹田荘師友画録』に「木米 木米老人、名八十八、号木屋、因自称木米。京人、居于鴨東大和橋北、予初訪其居甚狭窄、架鴨水上、流水湲潺、響于屋下、手汲其水煎茶、旦日、此茶福井榕亭所造、便贈一絶、末二句云、家園水即鴨河水、煎出榕亭老子茶、老人喜之、常念此曰、非尋常児之所能作也、於是相得太親。爾後毎入京、必時往来、話雑諧謔、且笑且説、忽実忽虚、不可思議、予謂、大雅・春星諸老没後、殆六十年、当時人物典型、猶存而可観者、唯翁一人耳。頼山陽睨親一世、不敢折節下交。独與老人善、便言、我天下之書無不読、天下之事無不記、而翁能読吾未読之書、又記吾未記之事、雲華含公亦能傲物、面而於翁乃太傾倒、口其名不少措焉。翁素多芸、特以善陶著、泥土博埴、諸法方円稜角、各式其色、青紅粉紫、其画山水人物、莫不一々精妙、最長撫古、倣宋明諸窯、與真無二、故骨董家、啗以千金、猶不可得、至青磁、翁始開其法、今摂州三田窯、亦偸翁法所作、或言昔者有穎川氏者、居建仁寺善陶、翁従斯人受教、日置窯於栗田山下、身服綺紈、手博泥土、望之風標、昂然阮屐嵇鍜、不是過也、傍設茶寮暇日煎点自娯、蓋其技可謂前無古人、後無来者。其画亦出于古窯所描、故焦墨乾擦、不用渲 染、奇致異想、自具別趣。予今歳三月入京、四月二十九日面別下江、五月十六日含公寄書云、翁以昨十五日下世矣、予常称画中知己者二人、翁與頼山陽是也、山陽客歳死、迺謂失左臂、今可謂左右臂倶失也。翁所居有一倉、多貯各色諸土、嘗指此語予曰、倉中所貯、自唐山諸窯、而下夷蠻所出之士、無不悉有、我死之日、更無他願、盡合此土、和以鴨水、投屍於内、搏作一團丸、用粟田窯焼、三昼夜而後、填之京北山中、以俟千歳後有知己之開此者、是我之願也。今得其訃、偶憶遺言、雖事渉虚誕、足使来者想見其人也、故録于此。」 (木米老人、名は八十八、木屋と号し、因って自ら木米と称す。京の人、鴨東大和橋の北に居す。予初め其の居を訪うに甚だ狭窄、鴨水の上に架し、流水湲潺とし、屋下に響く。手もて其の水を汲み茶を煎じて、且つ曰く、此の茶福井榕亭の造る所なり。便ち一絶を贈る。末二句に云う、家園の水は即ち鴨河の水、煎じ出す榕亭老子の茶。老人之を喜ぶ、常に此れを念して曰く、尋常児の能く作る所に非ざるなり、是に於て相得て太だ親し。爾後京に入る毎に、必時往来す。話諧謔を雑へ、且つ笑ひ且つ説き、忽ち実にして忽ち虚なり、思議すべからず、予謂へらく、大雅・春星諸老の歿せし後殆んど六十年、当時の人物の典型、猶存して観る可き者、唯翁一人のみ。頼山陽、一世を睨視し、敢て節を折って下り交はらず。獨り老人と善し。便ち言ふ。我天下の書読まざるは無く、天下の事記せざるは無し、而るに能く吾が未だ読まざるの書を読み、又吾が未だ記せざるの事を記すと、雲華含公り亦能く物に倣る、而るに翁に於ては乃ち太だ傾倒し、その名を口にして少しも措かず。翁素より多芸、特に陶を善くするを以て著わる、泥土搏の諸法、方円稜角の各式、其の色の青紅粉紫、其の画の山水人物、一々精妙ならざるは莫し。最も撫古に長じ、宋明の諸窯に仍ひ、真と二無し、故に骨董家、啗わすに千金を以てするも猶を得べからず。青磁に至りては、翁始めて其の法を開く。今摂州三田窯も亦翁の法を係みて作る所なり。或いは言う、昔頴川氏なる者あり、建仁寺に居り、陶を善くす。翁斯の人に従い教を受くと。平日窯を粟田山下に置き、身に綺紈を服し、手に泥土を摶む。之を望めば風標昂然として。阮屐嵇鍜も是に過ぎざるなり。旁らに茶寮を設け。暇日には煎点して自ら娯しむ。蓋し其の技は前に古人無く、後に来る者無しと謂ふべし。其の画も亦た古窯を描くところより出づ、故に焦墨乾擦して、渲 染を用いず、奇致異想は、自から別趣を具ふ。予今歳三月入京し、四月二十九日面別して江を下る。五月十六日含公書を寄せて云ふ。翁昨十五日を以て下世すと。予常に画中の知己を称する者二人、翁と山陽と是れなり。山陽客歳死す、廼ち謂ふ左臂を失ふと、今左右の臂倶に失ふと謂ふべし。翁の居す所に一倉有りて、多く各色諸土を貯ふ、嘗て比を指して予に語て曰く、倉中貯ふ所、唐山の諸窯よりして、下は夷蠻出す所の土、悉く有らざるはなし、我死するの日、更に他の願なし、盡く比土を合せ、和するに鴨水を以てし、屍を内に投す、搏めて一団丸を作り、栗田窯を用ひて、焼くこと三昼夜の後、之を京北の山中に填め、以て千歳の後、知己の此を開く者あるを俟つ。是我が願なりと。今其の訃を得て、偶々遺言を憶ふ。事虚誕に渉ると難も、来者をして其の人を想見せしめるに足るなり、故に此に録す。)とあります。
『陶器考附録』に「木米 木屋佐兵衛粟田陶工の内 元陶工に非す書をよくし又画によし大坂にあそんて清人朱笠亭の陶説を見て初て陶に志し頴川と云人に付て陶法を学ひ寝食を忘れて唐土の釉法を得てついに青花白地(染付のこと)及ひ青瓷の法を極め陶説を印刻して此をひろむこヽにおいて本邦染付青瓷の製唐土にすくれ初て盛になる実に木米の功なり先に五郎太夫青花白地を伝ヘ乾山仁清西洋の風を写すといへとも或薬つやうすく薬の法そなわらす釉法を後に伝へす其意名を取にありて広く国益を大にするは木米一人なり然れとも名印を用ゆること遅くいたつらに贋物師となりしは可惜なり」とあります。
『観古図説』陶器之部五に「木米は俗称を木屋佐平と云ひ号を九々鱗よ云ふ文化文政間の人にて京師に居住せり常に陶器を好み朝鮮国の製なる白薬並に三島手及ひ清国の製なる青磁並に赤画及安南国の交趾製の緑薬並に紫薬又は南蛮国の素焼き等の陶器を摸製す土の質薬の色何れも実に其真物を見るか如くに作るを主とす之れ近来の雅作なり木米の印を用う又松浦氏の蔵品なる風炉の敷瓦に(粟田)印と(木米)印と両印有るものあり 〇文政元年は今を去ること七十四年前に当る此後十四年を下りて文政元年に当る〇安南国は清国より西南に隣りす〇南蛮国は清国より南に当る外国を云へ共旧伝には安南国より西の国々を概して南蛮と云へり」、陶器之部七に「木米の氏は青木名は八十八俗称木屋佐兵衛号九々鱗尾張の産にて繩手三条下る所に住す始は上辺に居と云元は南禅寺の僧侶にて有りし故に文学あり古銭を写すこと上手又唐扇を作る或るとき大坂に遊びしか清人朱笠亭の陶説を見て初て陶器に志し頴川に就て陶法を学ふ朝鮮支那交趾を写す(粟田)(木米)の印を押す窯は粟田小物座町にあり今は福島庄兵衛の所有となる窯巾二間にて元は三段位ひと云又東京へ来り小梅向島の間に大師の二三町先に窯場と云処は木米の細工場なりと云」とあります。
『大成陶誌』に「木米 姓は青木氏、名は八十八、之を縮めて木米と号す、字は佐平、九々鱗と号す、書画を能す、明和四年生、天保四年歿す、年六十七、遺子あり周吉と云ふ、八才にして夭す、其姉ヲイ、享年七十余にして歿す、元陶工に非ず、偶蒹葭堂に寓し、朱笠翁の陶説を読み、始て陶業に志し、頴川に学び、遂に其精を極む、其陶説翻刻して世に公にす、文化四年(或は云文政年中)亀山鶴山の招に応じ、加州金沢春日山に於て製陶に従事し、同五年帰京す。○木米、其先は尾張の人、少壮より儒雅の間に交り、書画を能くす、中年耳聾す、曾て紀州公に謁して古器観の印を賜ふ。○木米元は南禅寺の僧にてありしかば、学文に通ず、云々、窯は粟田小物座町にあり。○文政の初め粟田小物座町に窯を開く、土は建仁寺東遊行又は神明東岩倉に採り後江洲野州郡南桜山村に採る」とあります。
『工芸遺芳』に「青木木米 通称八十八一名木屋左兵衛と云 文政年間粟田小物坐町に陶窯を築き自から九々鱗木米と号し専はら陶業に従事す然れとも其製品固有の粟田焼と異なり別に一種の新意匠を出せり抑本邦染付青瓷の製海外に勝りて初て盛なるは木米の功なり先に五郎太夫青花白地を伝へ乾山仁清西洋の風を摹と雖或は艶薬薄く薬の法備はらず釉法を研究し広く国益となるは木米より始る且つ此人山陽竹田等の名士に交り書を能し画に巧なり宜哉其名一世に高きこと天保四年五月病没す鳥部山に葬る墓碑左の如し子孫小米現に五条坂に住せり 陶工木米碑 木米青木氏、俗称八十八、縮為米、其名也、因自称木米云、字佐平、号九々鱗、其先尾張人、来住京師、木米以善陶聞世、自少壮好儒雅之交、為当時諸老先生所愛、中年耳聾晩與山陽頼子成善、子成称其頗知字天保発巳五月十五日病歿、年六十七、有遺孤名周吉時八歳 浪華篠崎弼撰並書」(陶工木米碑 木米青木氏、俗称八十八、縮めて米と為す、其の名なり、因りて自から木米と称すと云ふ、字は佐平、号は九々鱗、其の先は尾張の人なり、来りて京師に住す、木米陶を善くするを以て世に聞こゆ、少壮より儒雅の交はりを好み、当時の諸老先生の愛する所たり、中年に耳聾す、晩に山陽頼子成と善し、子成其の頗ぶる知字を称す。天保発巳五月十五日病歿、年六十七、遺孤有り、名は周吉、時に八歳。浪華篠崎弼撰並書)とあります。
『蒹葭堂日記』寛政八年(1796)一月十一日條に「青木八十八古門前木屋佐兵衛の子也」「印刻の人」「青木八十八 鳳沖紹介来」とあるといいます。
『雲林院家系』に「十一代文蔵 松本忠兵衛別家す、上田秋成(余斎の事)号無腸、陶工を教る、陶器堆朱堆黒を焼初む、青木木米並に高橋道八に陶器を教る、安水錺屋新太に陶器を教る、弟吉兵衛相続、天明年度号岩倉山、文化四年十二月晦日歿」とあるといいます。
『煎茶早指南』享和二年(1802)刊に「(急須図)右左兵衛作からものうつし上品にてあたえも又貴し」「高翁の時分、急焼、こんろ、茶わん等を、やき出すに其名を得たるものは、建仁寺町三文字屋七兵衛と、清水の辺に住す梅林金三なり、今其形をうつして焼出すもの、清水の六兵衛、同嘉助、左兵衛等、尤上作なり、六兵衛、嘉助、近比故人になりて、今の嘉助又妙作也、左兵衛は、唐物をうつすに妙を得たるものなり、煎茶置用の陶器を、専らに、ひさぐものは、旭峯、松風店なり」とあります。
『青蓮院日次記』文化二年(1805)に「一、御境内東町陶工師茶碗屋木屋佐兵衛依頼、御立入并御用暖簾御免御礼御茶碗刷毛目、御香合蟹壱、扇子三本入一箱献上、御賄迄罷出る」とあるといいます。
『箕柳祠碑文』文化四年(1807)に「文化乙丑之冬。坊長亀田喜。客平安時。窯戸巨擘。青木來字木米者。其聲名傾都下。尋賭其所製。白瓷青瓷霽紅天藍。滋潤細膩之土脈。殆與華舶齎來之柴汝官哥高麗龍泉相亢。喜為之忽然神動。即以介紹咨杖屩可北否。來日。我嘗雖南應紀公之聘。空手而歸。然貴邦古者有九谷窯。良磁也。今尚土石依然。則古可復。業可擧。 」(文化乙丑(1805)の冬、坊長亀田喜、平安に客す時、窯戸の巨擘、青木、字は木米、其の声名都下を傾く、尋ねて其の製する所を睹るに、白瓷、青瓷、霽紅、天藍、滋潤細膩の土脈、殆ど華舶齎来の柴、汝、官、哥、高麗、龍泉と相亢す、喜て之を為るに忽然神動す、即ち介紹を以て杖屩北する可否を咨る。来曰、我嘗て紀公の聘に応じ南すと雖も、紀中に采る可き良石土無く、手を空して帰る。然れども貴邦古は九谷窯あり、良磁なり。今なお土石依然、則ち古に復す可し、業を挙げる可し。)とあります。

茶道をお気に入りに追加