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保全

古清水 頴川 木米 仁阿弥 保全 六兵衛

交趾写荒磯文水指 保全造

保全(ほぜん)は、いわゆる永楽保全すなわち十一代善五郎のことで、江戸時代後期の京都の陶工で、青木木米、仁阿弥道八とともに幕末京焼の名工の一人といわれます。
保全は、寛政七年(1795)京都西陣の織屋澤井宗海の子として生まれ、幼名は千太郎、幼少の頃より二條東洞院東入で絵具や釉薬を商う百足屋小兵衛薬舗に奉公し、のち大徳寺黄梅院の大綱宗彦のもとに喝食として入り、文化四年(1807)十三歳の時に大綱和尚の世話で子がなかった土風炉師西村家十代善五郎(1770〜1841)の養子となったといいますが、異説もあります。
保全は、養父十代善五郎の下で家業の土風造りを行うかたわら、茶陶に進出すべく陶技を深草の人形屋市右衛門から学び、伏見の土器師山梅の元にも通い、さらに了全と相談して粟田口の陶器師岩倉山にも学び、登り窯を持たないため宝山文藏の窯で焼成していたといいます。
保全は、茶の湯は文化八年(1811)表千家の茶家久田家七代皓々斎維妙宗也(1767〜1819)に入門、書道は松波流を、画は狩野永岳(1790〜1867)に、和歌は香川景恒(1823〜1865)に学び、禅は大綱和尚に参じ、釉薬の研究のために舎密究理(科学化学)は蘭方医の新宮涼庭(1787〜1854)日野鼎哉(1797〜1850)、蘭学は廣瀬玄恭などに就いて学ぶなど、当時の京都において一芸一能ある人には交遊を求め技術の研究に努めたといいます。
保全は、文化十四年(1817)十代善五郎が隠居し、二十三歳で土風炉師西村家を継いで十一代善五郎となります。十代善五郎は表千家九世了々斎曠叔宗左から「了全」の名を受け、隠居後も「風炉師了全」銘で引き続き土風炉などを造ります。
保全は、善五郎を襲名した年に妻を娶り一女をもうけますがその後妻が亡くなり、文政六年(1823)百足屋木村小兵衛の娘を妻に迎え、同年長男仙太郎(十二代善五郎和全)を授かりますが、文政八年(1825)には再び妻と死別します。
保全は、文政十年(1827)三十三歳のとき藤原光盈が荘子から選した「保全」(やすたけ)の名を得て、以後晩年に至るまでこの名を併用します。
保全は、文政十年(1827)十月、同八年久田家より表千家十代家元に迎えられた吸江斎祥翁宗左の紀州徳川家への初めての出仕に父了全と共に従い、紀州家十代徳川治宝の別邸西浜御殿の御庭焼偕楽園焼に参加し、「河濱支流」(かひんしりゅう)の金印と「永楽」の銀印を下賜されます。 以来同家では「永楽」を号として用い、了全も「永楽了全」と箱書きし印も押しています。永楽を名字とするのは明治元年保全の子十二代善五郎和全の時です。 これ以降保全の本格的な作陶活動が始まったと考えられており、交趾、染付、金襴手などの写し物が伝わっています。
保全は、天保十四年(1843)四十九歳の時、千家家元と相談の上善五郎の名を長男仙太郎に譲り十二代善五郎とし、自身は隠居し善一郎と名乗ります。 これは、天保の改革による奢侈禁止令が焼物にも及び、保全も奉行所に呼び出され高級品の製作禁止と諸家よりの注文品は届け出て奉行所の指図を受けるよう申し渡しを受けたものの、紀州徳川家をはじめとする諸家よりの注文が度重なり、奢侈禁止令に抵触し、累が及ぶことを懸念してのことといいます。 しかし程なく老中水野忠邦が失脚し、弘化二年(1845)頃より本格的に善一郎としての作陶活動を再開し、弘化三年(1846)には鷹司家の御庭焼をつとめ「陶鈞」の号を、嘉永元年(1848)には「陶鈞」の印を下賜されます。
保全は、弘化四年(1847)親友であった塗師佐野長寛(1794〜1856)の次男宗三郎を養子に迎え、十二代善五郎の義弟とし、永楽善一郎を称する別家をたてようとしましたが、これにより十二代善五郎との間に不和が生じ、嘉永二年(1849)保全は善一朗家を隠居し、十二代善五郎が西村善五郎、永楽善一郎両家の当主となり、宗三郎は善治郎と改名し十二代善五郎の跡継ぎとします。
保全は、嘉永三年(1850)京都を離れ江戸に下向し、翌嘉永四年(1851)大綱宗彦和尚と義父百足屋木村小兵衛の意をいれ帰西しますが、京都には戻らず大津にとどまり、三井寺円満院門跡の御用窯である湖南焼を興します。 また嘉永五年(1852)には高槻藩主永井直輝に召されて高槻窯を築き、同年再び湖南焼に戻り、嘉永七年(1854)には円満院門跡宮の御用窯を興し、作品には「三井御浜」「長等山」「河浜」といった印を用いています。同年享年六十歳で没します。

金襴手花筏図水指 保全造  祥瑞写蜜柑水指 保全造  絵高麗写花文耳付水指 保全造 三井記念美術館蔵
金襴手花筏図水指  祥瑞写蜜柑水指  絵高麗写花文耳付水指
黄交趾荒磯文水指 保全造  祥瑞写山水花鳥文釣瓶水指 保全造 滴翠美術館蔵  色絵菊花置上曲水指 保全造
黄交趾荒磯文水指  祥瑞写釣瓶水指  色絵菊花置上曲水指

『観古図説』に「永楽は元風炉師にて茶人の珠光及紹鴎等此家に来りて土風炉物の好み有りて造り初めたり之れ等を世に奈良風炉と称す ○十一代目の名は保全通称は善五郎と云後に善一郎に改む十代目の善五郎了善の男にして父の名跡を受け家督相続して職業を営むこと先世に同し父の所業を見習ひ交趾焼及ひ祥瑞を摸し或は染付青磁並金襴手其外種々の製造苦心焦思す然るに文政十丁亥年に当り紀州旧領主徳川氏より保全を初めて招き同国西濱の庭前に於て陶器を焼かせらる之れを世に紀州の御庭焼と云此時に旧領主より河濱支流の金章並に永楽の銀章を贈らる其後保全の家業盛大に成り家事百般意の如くなる析柄公侯貴人並に冨家三井氏等の愛顧に因て無類の什物並に珍器等夥多博覧するを以て其職業に工夫を凝らして種々の名器を模せし功験により如意の諸器を製作し得たり其造る所の磁陶器は粗唐物を好て作る此代よりして永楽の称を呼ふこととはなりぬ又此頃近衛家の珍蔵なる揚名炉を密借して鷹司家より摸製を命す時陶釣軒の印並に書を與へらる又有栖川識仁親王より以陶世鳴の書を授けらる此後益励精して阿蘭陀の白菜えまゆるほに莫大の金子を費やし且当時在来の色画薬に工夫を運らして己ます之れか為め多量の貯金を費やして苦心すること凡七八年なり然るに嘉永七甲寅年四月内裏炎上の時に臨して居宅類焼し再ひ家宅を造作する力なく江州の江南へ行き円満院宮の濱殿の庭中の陶器竃を築造す一ヶ年を歴て東京へ赴き平素の志願立ると云へとも職業に付き昇烟の本望終に遂けすして己を得す帰京して病死す」 「永樂と号する所以は保全紀伊国徳川成順に用ひられ愛顧の渥きに因り河濱支流の金印と永樂の銀印とを贈らる、河濱支流と云故事は史記の五帝本紀に舜河濱に陶すと云を以て其末をくむと云の意、永楽とは支那国の年号にて此時に当り各種の美製の陶器を製出す、之れに比するの意味なり、宗全之れを悦ひて爾来名付来りて遂に永樂を以て其家号に替へ用いたるなり。」とあります。
『鑑定備考』に「永楽焼は京焼の一種なり。初代西村宗印より、今工善五郎に至るまで、十三代を継承し、代々善五郎を通称す。而して、初代より九代までは、世々土風呂を造るを以て業とす。十代了全に至り、土風呂を造る余暇を以て、初めて磁器を製す。実に文化年間なり。十一代善五郎保全に至り、和漢の古器を模造し、頗る精巧を極む。また支那永楽年年間(明の世)に製せる金襴様の磁器に則りて、赤色釉を塗り之に金粉を以て、古代の彩紋を描出することを発明し、和歌山の城主徳川斉順公の愛玩する所となり、永樂の印を賜はる。これより永楽を以て氏と為し、且つ以てその磁器の名とし、永楽金襴手といふ。これ即ち永楽焼第一世なり。次で鷹司家よりは陶鈞軒の印を、有栖川宮よりは以陶世鳴の書を賜はり、名声頓に揚がる。また紀州御庭焼染付などには、偕楽園の号及び河濱支流の印を押し、落款を付す。嘉永の初年には、南紀南山等の銘を附したるものを出したれども、品を稍々劣れり。安政十二年卒す。」とあります。
『陶磁器業者に関する取調書』に「十一世善五郎、宇名保全、常に陶器を心懸け、享和年の頃父の了全と対談し日々に粟田口の陶器師岩倉山某に陶器の造法を倣う。」とあるといいます。
『保全五十年忌碑文』に「家祖西村宗義、姓源、號寄翁、法名宗也、大和人、足利氏之族也、以住西村為氏、好風雅巧造土風爐以為家業、傳其法宗善、三代宗全移居于京、即風爐圖子是也、子孫經宗雲宗貞宗順宗圓宗嚴至了全、厚信淨土宗、遂定瑩域于法念寺云、陶鈞軒主人名保全、通稱善五郎、以ェ政七乙卯生、嗣父了全之業長而研究陶法、日夜刻苦、殆廢寢食、模右器磁質釉彩極妙、紀伊侯令保全、開窯于園中、與全印日河濱支流、更令家工永樂、其後鷹司公賜陶鈞二字、有栖川宮賜以陶世鳴四字、不滅明窰金襴樣者、最世人所珍賞、嘉永三年赴江戸、歸途奉圓滿院宮旨開窰湖南、稱長等燒是也、嘉永七年四月京都火宅歸烏有、故留而不還、將應高槻侯之招未果、同年秋罹病九月十八日歿、享年六十歳也、男和全繼業、明治之初以來永樂為氏、赴加州又參州皆陶業也、晩年寓東山、所製日菊谷燒、明治二十九年三月六日歿、歳七十五、今茲癸卯當保全五十年忌辰、欲追遠碑、以使子孫知其由來、詢阿形義ェ記其梗概、孫永樂善五郎志」とあるといいます。

     
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