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仁阿弥

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仁清写流釉水指 仁阿弥道八造

南蛮写耳付水指 仁阿弥道八造

仁阿弥(にんあみ)は、仁阿弥道八すなわち二代高橋道八のことで、江戸時代後期の京都の陶人です。
仁阿弥は、「にんなみ」とも読み、一般的には仁阿弥道八(にんなみどうはち)が通り名となっています。
初代高橋道八は、巷間元文五年(1740)伊勢亀山藩士高橋八郎太夫の次男に生まれ、名を高橋周平光重とされますが、高橋家資料等には寛延二年(1749)三月十七日生で、生家の系譜では名は光峯、長男となっているといいます。宝暦年間(1751〜1764)に京に出たとされ、三条栗田口に居を定め、雲林院宝山文蔵に就いて修業し、宝暦十三年(1763)粟田口に窯を築き、道八を名乗り、松風亭空中と号し、また方観と号します。文事を好み、文人墨客と交わり、池大雅・上田秋成・松村呉春・売茶翁とも交遊があったといわれます。文化元年(1804)四月二十六日歿。享年五十六歳。
二代高橋道八は、天明三年(1783)初代高橋道八の次男として生まれ、名を光時といい、幼年から父に従い修行し、長男周助光貫が寛政九年(1797)十九歳で夭折していたため文化元年(1804)初代道八の逝去に伴い二十二歳で家を継いで二代道八を称し、父の号である松風亭を受け継いだほか、後に華中亭と号し、以後この号が高橋家代々の雅号となります。なお初代道八の三男の周平光吉(尾形周平)も陶工となり名工と称されます。
二代高橋道八は、奥田頴川(おくだえいせん)に師事して磁器を学び、文化八年(1811)頴川の歿した年に、粟田口を離れ五条坂に移り、雲林院宝山文蔵に就いて弟の周平(尾形周平)とともに陶器を学びます。
二代高橋道八は、文政七年(1824)近江石山寺尊賢法親王のもとで四十二歳で剃髪し、そこで石山御庭焼を開き、同年西本願寺第十九世本如上人の命で清閑寺の裏山采嶺渓(さいれいだに)に御庭焼「露山焼」(ろざんやき)を開窯し、 翌文政八年(1825)仁和寺宮より「法橋」に任じられ「仁」の一字を賜り、醍醐寺三宝院門跡から「阿弥」の称号を拝領し「仁阿弥」を名乗ります。
仁阿弥道八は、文政十年(1827)には紀州徳川家十代治宝(はるとみ)が別邸西浜御殿内の偕楽園という庭園に窯を築き京都から著名な陶工を招いて焼かせた御庭焼「偕楽園焼」(かいらくえんやき)に招かれ、その帰途和泉貝塚寺内領主願泉寺住職卜半家の招きで「願泉寺御庭焼」に携わったとされ、同年薩摩島津家二十五代重豪(しげひで)に遣わされた茶道役重久元阿弥に陶法を教授したともいわれ、 天保三年(1831)讃岐高松松平家九代頼恕(よりひろ)に命じられた大川郡三本松村の堤治兵衛に招かれ長男光英(三代道八)及び弟子三人を伴い三本松に赴き同地五輪東阜に「讃窯」(さんがま)を起し、天保十四年(1843)薩摩島津家の用名を受け京都岡崎の薩摩藩邸に岡崎焼を始めるなど各地の御庭焼に参画し、京都嵯峨の豪商角倉玄寧(すみのくらげんねい)の個人窯「一方堂焼」(いっぽうどうやき)にも関わったといいます。
仁阿弥道八は、天保十三年(1842)還暦を迎え家を三代道八に譲り、自らは伏見堀内村江戸町へ隠居して道翁と号し窯を開き、桃山の印を捺し桃山焼と称し作陶を続けました。安政二年(1855)歿。享年七十三歳。
仁阿弥道八は、仁清風や乾山風の作品を中心的に製作されている。仁清風の茶碗などを得意とされ、幕末期より「道八黒」と称される道八家ならではの油滴天目など、京焼らしい作品を製作される 仁阿弥は作風は色絵磁器から茶陶・彫塑など多岐に渡り、特に琳派の画風の「雲錦手」や人物・動物を写実的に模した彫塑の名手。
仁阿弥は,建仁寺近傍の奥田穎川の門を叩き磁器の研究を進める一方,楽焼や野々村仁清以来の陶器の伝統をも受け継いで作域を拡大した。 18世紀前半の京焼を代表する尾形乾山(深省)の乾山焼から多くのことを学び,京風の陶器作りに力を注いだ。そのなかでも,白化粧地に上絵付で春の桜・秋の紅葉をひとつの器に描く雲錦手は乾山焼によりながらも彼の得意の作となった。彫塑像も巧みで,寿老人,布袋,福禄寿など七福神の置物にも妙技を発揮した。中国趣味の煎茶道具作りには走らず,正統派の和様の伝統を守った。

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『観古図説』に「道八は氏を高橋と云京師五条坂の住人にて各種の陶器を作る美製と雅製と中間の作ぶりなり文政年時より陶器を作り天保の頃讃州高松及ひ播州姫路へ行き陶法を伝習し又山城国桃山に於て焼くことも有り嘉永の比法橋に叙し仁阿弥と号す道八の印を用う又(仁阿弥)の印もあり又箆彫りの銘も有るなり」「道八の氏を高橋と云大谷前西落丁に住す後一丁西の仏師仲丁に移住す頴川に陶法を習ひ又舎弟の周平と共に粟田の宝山に行て其製を少しく習ふこと有り文政二年より磁器を作り始めたり御室の宮の受領にて四十二歳の時法橋に叙し仁阿弥と号す讃岐国高松へ三たひ陶法の伝習に行きしことあり又薩摩へ陶法を伝ることあり此時同国の茶道重久元阿弥と云人伝へに見へたる土並に薬を贈る粟田風の窯を築き又粟田風を取て玉子手を作り始めたり薬は少し弱し之れ世に聞へしさつまの錦手の始めなり道八は常に螺貝を好むにより薩摩より観美なる貝を贈られしかはそれより螺の印を作り用いたり五十七歳の頃伏見堀内村江戸町に窯を築き本窯と楽窯と二箇共に今に存す桃山の印を押す安政元年七十三歳にて死す今は三代目也」とあります。
『大成陶誌』に「高橋道八 初代周平、石川光量、松風亭空中と号す、勢洲亀山の藩士、高橋八郎太夫の次男、元文五年に生まれ、文化元年四月廿六日卒す、歳六十五、宝暦年間粟田に寓し、陶器を製す。二代 道八、名は光時、法螺山人と号す、晩年仁阿弥と号す、文化八年五条坂に移住す、天保十三年、伏見桃山に隠居し、桃山焼と称す、抜画を製し世に用ひらる。文政九年仁和寺宮より、仁阿弥の字を給ふ、法橋に叙せらる。三代 道八、名光英、父仁阿弥に随ひ、家業に従事し、明治二年鍋島閑窓君の招に依り、有田に赴く、彼地の試焼等あり。四代 道八、名は光頼、継業。」とあります。
『平安通志』に「高橋道八は亀山藩士高橋某の次男、周平重光と曰ふ、松風亭空中と号す、宝暦中粟田口に釜を開らき、岩倉山陶工と共に、陶器を造る、人物及ひ獣類の置物香合等の類最も妙を得たり、当時の名家池大堂及ひ上田余斎等と交る、故に其製品には稀れに大雅の画きたるものあり、其子二代道八は法螺山人と号し、後ち剃髪して仁阿弥と称す、最も手捏に巧にして、其物象の如きは殆と真に迫れり、其他茶器及ひ三島焼刷毛痕及ひ南蛮の古器を模するに妙を得たり、文化年間居を五条坂に移す、後ち紀州侯高松侯等の聘に応して御庭焼を造り、名器多し、晩年に伏見桃山に閑居して窯を開く、其器には桃山の印あり、三代道八も亦た名匠にして、古器を模するに長し、青花磁白磁のぼかし焼の法を発明し、且つ藍色の諸器を製するに妙を得たり、曾て父仁阿弥と共に京師誓願寺火災の時、焼失せし本尊仏の灰を以て、阿弥陀仏の座像四尺余のものを造りしと云ふ、其子道八も家声を墜さす、益技巧を進め、時の名手と称す」とあります。
『鑑定備考』に「高橋道八 曾祖父空中は、伊勢亀山の藩士高橋八郎太夫の次男にして、周平光重といふ、宝暦中京都粟田に寓し、陶業を開き、兼ねて竹木の彫刻を善くし、松風亭空中と号す。之を初代と為す。二代道八、文化八年五条坂に移り、和漢の古陶器を模し、又捏像を製す。文政九年仁和寺宮より、法橋及び仁阿の字を賜はり仁阿弥と称す。文政の末三代道八と謀り、白磁青華磁器を創製し、名声遠近に伝はる。天保十三年、伏見桃山に退隠し、此所に別窯を築きて、桃山焼を製す此の器や、各種の彩料を用ひて、釉上釉下に浅深のぼかし及び抜書きを出せるもの、当時他に比類なかりしを以て、世の珍賞を受く。三代道八、亦家声を墜さず、明治二年鍋島藩の召に応じて、肥前有田に赴き京窯きて彩画を教ゆ。今の道八は第四代とす。道八一家の陶磁用土石は、多く肥前天草、近江信楽に取る。」とあります。
『雲林院家系』に「十一代文蔵 松本忠兵衛別家す、上田秋成(余斎の事)号無腸、陶工を教る、陶器堆朱堆黒を焼初む、青木木米並に高橋道八に陶器を教る、安水錺屋新太に陶器を教る、弟吉兵衛相続、天明年度号岩倉山、文化四年十二月晦日歿」とあるといいます。
田能村竹田『屠赤瑣瑣録』巻四に「陶工道八の父は、法観と云ふ、空中と号す、亦陶を善すと云ふ。」とあります。
上田秋成『文反古』に「土師方観か、我かたちを作りておくりしを、おきまとはして、八条の大通寺の内なる実法院へ、しはしおかせよといひやりし文 にくさけなるものもたせ参らす、いつこの隅にも打やりておかせたまへ、土師かたのまぬ事して、御寺を煩はし奉ることよ、あはれ破くたけよかし、土にかへらむをとおもひつゝ、えこほたぬ心きたなさよ。蘆蟹のあなうと世には在わひて、かけとむへくはおもはさりしを、と、うちなけかるゝになむ。」とあります。
滝沢馬琴『羇旅漫録』に「粟田の陶器 京都の陶は。粟田口よろし。清水おとれり。白川橋に松風亭という店あり。大坂蒹葭堂このみのこんろきうす等を製す」とあります。
大田南畝『一話一言』に「一 蒹葭堂云、日々御規式天子日供は則高橋家より調進也、御椀土器なり、常の御膳は是も御椀は陶器にして薬をかけて焼たるなり、俗に茶碗と称するものなり、陪膳は女官是に候す、所謂典侍内侍命婦女嬬の類なり、典侍内侍はこれを司り、其以下の女官是をはこぶ。」とあります。
『花洛名勝図会』に「五條坂陶器店 こは五条橋通なれど、今は清水辺より此わたりの坂路をすべて五条坂と呼ふ、建仁寺町の東に至り人家両側とも陶器を露ぐ者十に七八なり、因に云洛東粟田焼は寛永の初年尾州瀬戸より来りて其業を弘めしとそ、此五條坂また清水坂は御菩提焼の流、仁清の風に起れりと、仁清は北村氏にて陶器の名人たり(金森宗和〓同時の人と云ふ)はしめは洛西仁和寺御室の傍に住て晩年爰に移住せしと云ふ、その事蹟今詳ならす、近年高橋道八(後仁阿弥と称す)尾形周平等の巧手競出て染付金襴手青磁の類唐山南蛮の古製に劣らす、次て六兵衛・亀亭・与三兵衛・蔵六・清風・乾亭の輩益々新奇を工風なし、江戸大坂を始め諸国にこれを送りて煎茶家の称誉を得るも又我洛東の声価を増の一つといふへし」とあります。
『府県陶器沿革陶工伝統誌』に「高橋道八 曽祖父空中は伊勢亀山藩士高橋八郎太夫の次男にして周平光重と云、宝暦中京都粟田に寓し陶業を開き、兼て竹木の彫刻を善くし自から号して松風亭空中と云ふ、元文五年に生れ文化元年四月廿六日卒す、歳六十五、是を初代とす、二代道八文化八年五條阪に移り和漢の古陶器を摸し又捏像を製す、文政九年仁和寺宮より法橋及仁阿の字を賜ふ、因て仁阿弥と号す、文政の末三代道八と謀り白磁青華磁器を創製し名声遠邇に播す、天保十三年伏見桃山に遁れ別窯を築き桃山焼を製す、此器たる各色の彩料を用いて釉上釉下に浅深のぼかし及ひ抜画を出たす、当時其比類なきを以て世の珍賞する所となる、三代道八亦家声を墜さす」とあります。

     
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