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六兵衛

古清水 頴川 木米 仁阿弥 保全 六兵衛

御本山水水指 六兵衛造

六兵衛(ろくべい)は、いわゆる初代清水六兵衛のことで、江戸時代後期の京都の陶工です。
六兵衛は、天文三年(1738)摂津国島上郡五百住村(大阪府高槻市)の農家の古藤六左衛門の子として生まれ、幼名は栗太郎、通称を六兵衛、愚斎と号し、寛政十一年(1799)享年六十二歳で没します。
六兵衞は、寛延年間(1748〜1751)京都の五条坂の窯元海老屋清兵衛に丁稚奉公をして陶業を学び、明和年間(1764〜1772)五条坂建仁寺町に窯を開き、名を「六兵衞」と名乗りますが、海老屋清兵衛から授けられた「きよ水」の印を用いていたところから清水六兵衛で通るようになり、後に姓を「古藤」から「清水」に変えたといいます。
六兵衞は、主に茶陶を造り、作には信楽写、瀬戸釉(鉄釉)、御本、陶胎染付などがあります。
六兵衞は、天龍寺二百二十一世桂洲道倫より大小二つの六角「清」印を授かり、また妙法院宮真仁法親王(1768〜1805)の命により、御庭焼の黒楽茶碗を作り、宮手製の「六旦」の印を授けられます。真仁法親王が門跡の期間には妙法院には円山応挙やその息子の応瑞、門人の呉春など集った圓山応挙や呉春などの画家、小沢蘆庵、上田秋成や村瀬拷亭などの文人が妙法院を日常的に訪れており、その知遇を得たように、応挙、呉春の下絵による作があります。また秋成と栲亭の図案による煎茶器等の作があります。

信楽焼締水指 清水六兵衛造  絵御本芦絵水指 清水六兵衛造  瀬戸釉瓢水指 清水六兵衛造
信楽焼締水指  絵御本芦絵水指  瀬戸釉瓢水指

『陶器考附録』に「六兵衛 愚斎と号す 初海老清に陶を学ひ後信楽にても陶を習ふ六の字あるものヽ内に信楽出来あり六兵衛は土学に委し信楽の土最もよきゆへ常に是を用ゆ天竜寺の挂州印をさづく夫より印を用ゆ千宗室よりも印をさつくとなん (六旦)大仏御殿拝領大仏印と云 一箱印 六兵衛(清水) 印 (清)(清)(清水愚斎)(きよ水)(六)(六くへ)(清不)清不は唐土饒州にて素焼にする土を白不と云に習て清水土を清不と書しなり」とあります。
『観古図説』に「六兵衛は氏を清水と云京都五条坂の住人にて各種の陶器を作る雅作を主とす文政天保年間の人にて(清)印を用う六兵衛と箆彫りにせる物も有り」 「六兵衛は氏を清水と云元清水に居りし所以て名く愚斎と号す出所は宮川町の人なりと云五条坂芳野町に住す初め海老屋清兵衛に陶法を学ひ後信楽にても陶を習ふ六の字あるものヽ内信楽出来あり六兵衛は土学に委しく信楽土最も善きを知りて常に之を用う初め清水に居りし頃は(きよ水)(清水愚斎)(清水愚斎)の印を用う五条へ住し後ちは嵯峨天竜寺挂州和尚の筆にて(清)(清)(清不)等の印なり又大仏宮の手製の(六旦)印なり此外清六の印を用う時代は元文二年より寛政十年迄の人也右印の清不と云ふは支那国の饒州にて素焼にする土を白不と云白不に習て清水土を清不と書しなり麁雅なる作柄を好み近来の名工也一種の風をなす」とあります。
『大成陶誌』に「六兵衛 初代六兵衛、愚斎と号す、摂州島上郡東五百住村古藤六左衛門男、幼名栗太郎、寛延年間海老屋工清兵衛に学ひ、明和年間五条坂に創業し、清水六兵衛と称し、専ら茶器を製す、曾て妙法院宮御園にて、黒楽茶碗を焼製し、御自製六ツ目の印を賜ふ、以後黒楽茶碗に此印を擦す、此他用ゆる所、六角内に清の字、大小二顆を用ゆ、天竜寺挂州和尚、自ら手して授くる所なり、きよ水の印は、師清兵衛の授くる所、寛政十一年卒す、享年六十二」とあります。
『工芸遺芳』に「清水六兵衛 幼名栗太郎愚斎と号す摂州島上郡東五百住村の農古藤六左衛門の男なり寛延年中五条坂の陶工清兵衛(海老屋と号す)に就き業を受け後信楽にて陶を習ふ六の字あるものヽ内に信楽焼あり明和年中五条に開窯し専ら雅器を製せり曾て妙法院宮の為めに其園に就きて黒楽の茶碗を製す宮賜ふに六目印を以てす爾来茶碗を製する毎に此印を捺す又天竜寺僧挂州の手書に係る六角内に清字の印大小二類を押すものあり又きよ水の印は其師清兵衛の授くる所とす当時応挙、呉春、を友とし二氏揮毫の器物多く世に存せり寛政十一年卒す年六十二」とあります。
『平安通志』に「清水六兵衛は明和年間五条坂に窯を開く、海老清の門人にして、専ら土焼の茶器及ひ置物等を造る、雅にして妙あり、曾て妙法院宮の旨により、其園内に於て黒釉楽焼茶碗を作る、宮大に之を賞し、六角の印を賜ふ、此より黒釉茶碗には、必す其印を用ふ、又六角の内に清の字の印及ひきよ水の印あり、応挙呉春と相交はり、其製品に二氏の画くもの世に存せり、子孫相承け、其業益々進み、能く家声を継けり」とあります。
『鑑定備考』に「清水六兵衛 初代六兵衛は、摂州島上郡東五百住村の農、古藤六左衛門の男なり。寛保中五条坂の陶工清兵衛に就き、製陶の業を学び、明和中五条に一窯を設けて、専ら土焼の雅器を製し、号して愚斎といふ。曾て妙法院宮の為に、其の園に就て、黒焼の茶碗を製す。宮の賞翫啻ならず、賜ふに六目印を以てす。爾来茶碗を製する毎に之を捺すを例とせり。また天竜寺僧挂州の手書に係る六角内に清字の印、大小二個を押すものあり。きよ水の印は、其の師清兵衛より受けたるものなり。愚斎中年応挙、呉春を友とし、二氏の揮毫に係る器物、多く世に存せり。寛政十一年、六十二歳を以て世を去る。嗣子幼なるを以て数年休業す。」とあります。
『名家歴訪録』に「初代は寛延年中に京都へ参り、五条坂の陶工で海老屋清兵衛といふ方に丁稚奉公をして、陶器を製することを学びましたが。数年の後になつても、どうも今一つ自分の思ふ様に細工が出来ませむ。処が初代は幼年の頃より深く大師を信心してゐましたから、これは何でも大師様に御願ひ申す外はないと、十八の歳に僅かに賽銭位を持て、四国廻りを致し、」「何でも五条通りの建仁寺町を東に入る辺に肆を開ひて、表てに轆轤をすへて細工する。元来薄茶が大好で御座いましたから、細工場の傍に炉を切て、釜をかけて、少し疲れたと思ふと、一服たてヽ嚥で、また楽しんで細工する。夫で製りますのも重に抹茶の茶碗、水指といふような物で、若しお客さんが茶碗でも、水指でも御求めになりますと、直ぐ土だらけの手を洗ふて、前垂で拭て、夫で一服たてヽお上げ申すといふ風で、随分雅な人で御座いましたから、茶器も自づと面白味があつて、追々茶人方に称美され、遂に名も出ることになりました。」「その後大仏妙法院の宮さまの仰せを受て、御庭焼を致し、宮御手製の六旦の御印を頂戴致し、それからは茶碗によつて之を捺しました。この六旦の御印は、初め私共で六目の印と申しておりましたが、先日お没なりになりました建仁寺の梧庵和尚が御覧になりまして、これは六目でない六旦だ、初代が茶が好であつたから、夫れで宗旦の旦に、六兵衛の六の字を合して、六旦としたものであろうと仰しやいましたが、夫で理由が分りましたので。」とあります。

     
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