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頴川

古清水 頴川 木米 仁阿弥 保全 六兵衛

呉須赤絵写八角水指 奥田穎川造

頴川(えいせん)は、京焼で初めて本格的な磁器を焼成したとされる江戸時代後期の京都の陶人です。
頴川、奥田頴川(おくだ えいせん)は、名は庸徳(つねのり)、通称を茂右衛門、頴川(えいせん)また陸方山(りくほうざん)と号しました。
頴川は、明末清初の動乱を逃れて日本に帰化した中国河南省頴川出身の明人で頴川(せがわ)の姓を名乗った陳家の後裔として宝暦三年(1753)京都に生まれ、後に京都下京大黒町五条上ルで代々当主が茂右衛門を名乗る大質商「丸屋」を営む奥田家の養子となり、五代奥田茂右衛門となります。
頴川は、遺作の呉須赤絵写花龍魚文筆洗の底裏に「天明年製」と記し「頴川(花押)」と記した痕があるところから、天明年間(1781〜1789)頴川三十歳前後には作陶をしていたと考えられており、三十六歳の時には息子に跡を譲り隠居してしまいます。
頴川は、海老屋清兵衛に陶法を学び、当時流行した南画や煎茶を中心とする中華趣味から、明時代の呉須赤絵、染付、交趾写など中国古陶の模造を良くしました。
頴川は、その作品を専ら自らの身辺で用い、また寄寓した建仁寺に寄贈したり知友に贈ったと伝えられ、そのため明治維新までは巷間にはほとんど見られなかったといわれます。
頴川は、商品として作られたものでないためか落款・印銘のあるものは少ないですが、なかには「頴川」銘を染付や赤絵で高台内に記したものや、「頴川」銘に花押、庸徳の「庸」銘、「庸」銘に花押、「陸方山」銘、「陸方山」銘に花押などが知られ、「頴川」銘では「頴」の「匕」を「止」とした異体字を用いているのが特徴とされます。
頴川は、文化八年(1811)四月二十八日歿します。享年五十九歳。門下には、青木木米、仁阿弥道八、 欽古堂亀祐、三文字屋嘉介らがいたといいます。

古染付写芋頭水指 奥田穎川造 建仁寺大中院蔵   「穎川」書銘写 鑑定備考所載
古染付写芋頭水指   穎川」書銘写

『吉文字屋吉田甚兵衛家文書』安永八年己亥極月吉日廿組顔付帳に「大仏大黒町五条上ル 丸屋茂右衛門」とあります。
『竹田荘師友画録』木米条に「或言 昔者有穎川氏者、居建仁寺 善陶、翁従斯人 受教」とあります。
『陶器考附録』に「頴川(えいせん) 大黒町五条の南に住す 陶工にあらす好んで陶をなす海老清に陶法を学ひ能く唐物を写す印なし赤薬にて名又花押を焼付たる物あり木米道八亀介嘉助の徒此人に陶法を学ふ摂州三田の青瓷窯始るとき亀助をつかはして教へしむ初め木米ゆかんことを乞頴川聞ずして亀助をつかはす因て曰木米は功作衆に秀つ行しめは三田の青瓷古窯にまきれんと後果して染付青瓷の製を極め 本邦の染付青瓷唐方に勝るの法を開けり名人の先見たがはさること知るへし」「清兵衛 海老清と云 清水にて茶具を焼たる初なり頴川六兵衛ら此人に陶法を学ふ」とあります。
『観古図説』陶器之部七に「頴川は氏を奥田と云ふ号を陸方山と云建仁寺町五条上る大黒町の南大工町に住し質屋を業とす陶器を好み海老屋清兵衛に陶法を学びて製造す不具の人を助けんが為に之を置きて工人とし盲人には画具をすらし唖者には薬を掛けさせ支那の赤画呉洲染付等を作り印は無し青又赤薬にて頴川と銘する物稀れに有り又花押を焼付るも稀れに有り京地に於て磁器を作るの始めなり誠に唐物にまがふ御旅町に居を置く木米道八亀介嘉助等此人の門人なり摂州三田の打紙屋と云人陶器の産を興さんとて頴川に依頼せしに門人の亀祐熊吉周平の三人を差図して三田へ廻して三輪むしを等に窯を創立し今日に至り当地の産とはなれり其時代は元文頃より寛政頃迄の人と思はる石焼を初めしは今より凡百年余り前と考ふ窯は粟田作りしと云」「海老屋清兵衛と云工人あり享保の頃より此者清水にて茶具を専ら焼き始めたり頴川六兵衛等此人に陶法を学ふ中古の名人なり三年坂の下に住するものと思想せり文久二年に此三年坂下に仁清窯の地に海老屋弥兵衛と云者住し此東向ひに海老屋政次郎と云者の住居せし処を幹山傳七へ譲り渡して五条坂へ転居す」とあります。
『大成陶誌』に「頴川 姓氏不詳、大黒町五条南側に住す、専門陶工にあらず、好く陶器を焼成す、海老清に学ぶ、成化磁萬暦赤絵等の模造あり、印なし、赤絵釉を以て号と花押を書す、青華磁器には彫銘のものあり、木米道八亀介嘉助の徒、頴川に学ぶ、嘗て享和年間摂州三田の青磁窯を開くに当り、亀介を派遣す、木米行かんことを乞ふ、頴川許さず、人に語て云ふ、本来は其技倆衆に超ゆ、行かしめば三田の青瓷古器に紛れんと、後果して染付青瓷の精を極む、頴川先見ありしとなり」とあります。
『工芸遺芳』に「奥田頴川 名庸徳通称茂右衛門又号陸方山 享和年中五条大黒町に住す元陶工にあらす好んて陶をなす海老清に学ひ能く唐物を写す印なし赤薬にして名又花押を焼付たる物あり木米道八亀介嘉助の徒此人に陶法を学ふ摂州三田の青瓷窯始るとき亀助をつかはして教しむ初め木米ゆかんことを乞頴川聞ずして亀助をつかはす因て曰木米は功作衆に秀つ行しめは三田の青瓷古窯にまきれんと後果して染付青瓷の製を極め本邦の染付青瓷唐方に勝るの法を開けり名人の先見たがはさること知るへし(以上陶器考の〓を摘む)文化八年辛未四月二十七日五十九歳にして寂す法名修善庵閑翁居士と云」とあります。
『本朝陶器攷證』に「頴川 大黒町五条の南に住す、陶工にあらず好んで陶をなす海老清に陶法を学び能く唐物を写す、印なし赤薬にて名又花押を焼付たる物あり、木米道八亀介嘉助の徒、此人に陶法を学ぶ、摂州三田の青瓷窯始るとき、亀助をつかはして教へしむ、初め木米ゆかんことを乞頴川聞ずして亀助をつかはす、因て曰木米は功作衆に秀つ、行しめば三田の青瓷古窯にまぎれんと、後果して染付青瓷の製を極め本邦の染付青瓷唐方に勝るの法を開けり、名人の先見たがはざること知るべし」とあります。
『平安通志』に「奥田頴川は寛政年間の人、名庸徳、茂右衛門と通称す、陸方山と号す、豪商の家に生まれ、性陶器を造るを好み、粟田に於て窯を築く、其製品最も妙味あり、殊に赤絵呉州を模するに長せり、又古染付交趾窯に倣ふて製することを好み、最も巧妙にして韻致を失はす、其門人に木米道八亀助嘉助等の名工あり」とあります。
『鑑定備考』に「頴川 奥田頴川、名は庸徳(ようとく)、始め茂右衛門と称し、別に陸方山と号す。寛政年中豪商の家に生まる。性陶器を好み、常に支那の磁器を愛玩収集して、其の製法を研究し、また陶法を海老清に学び、終に得る所あり。粟田に窯を開きて之を試みしに其の製甚だ精なり。是れより古染付、交趾等を模造し、殊に赤絵呉州の器を模するに妙を得。門人に木米道八、亀助、嘉助などあり。何れも一代の名工として、其の技優れ、時期の製造盛んに、愈々精巧を極むるに至れり。頴川常に印を用ひず、赤薬にて名又は花押を焼付くるを例とせり。」とあります。

     
木米  仁阿弥  保全  六兵衛 

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