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利休四畳半

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利休四畳半

利休土間付四畳半「片桐貞昌大工方之書」

利休土間付四畳半「和泉草」

利休四畳半(りきゅうよじょうはん)とは、千利休が作ったと伝えられる四畳半の茶室のことをいいます。
利休四畳半は、利休が還暦過ぎまで使っていた堺の茶室では、入口は一間半で、四枚の障子を建て、床は一間床で、床壁は鳥の子の白張付で黒縁を打ち、松の角柱、勝手口には二枚障子を建て、道幸を設けてありましたが、ほぼ紹鴎の四畳半を踏襲したものです。
利休が還暦を過ぎた天正十年(1582)頃、堺から上洛して大徳寺門前の屋敷に四畳半座敷を作り「不審庵」(ふしんあん)の額を上げますが、この四畳半で利休は五尺床を試みます。しかし床壁は、まだ「張付壁」(はりつけかべ)と呼ばれる紙張りの壁でした。 ただ、鳥の子の白張紙ではなく薄墨色の紙を貼って侘びた体を表しています。 また、天正十三、四年頃に少庵が二畳半の小座敷に四尺床を構えたのを見て、この床を切り縮めて四尺三寸床にしたといいます。
利休四畳半は、「土間付四畳半」(どまつきよじょうはん)というものが若干異同はあるもの『和泉草』や『片桐貞昌大工方之書』に載っており、その図によると紹鴎四畳半における「坪ノ内」に代わり、壁で囲まれた土間を設け、土間の一端に「くぐり」が付き、二枚障子の入口の外側に縁が付いておらず、土間から直接座敷に上がる寄上りになっていて、座敷内には窓がついています。
利休四畳半は、天正十五年(1587)十月一日の北野大茶会で利休が作ったという四畳半の寸法書とされるものが各種伝書に載っており、それによると聚楽屋敷の四畳半座敷の写しといわれる宗旦が作った「又隠」(ゆういん)とほぼ同じです。
利休四畳半は、利休が最晩年の天正十五年(1587)の末頃に作った聚楽屋敷の四畳半座敷があり、宗旦が作った「又隠」(ゆういん)はその写しといわれています。

『細川三斎御伝授書』に「利休か堺にては松の角柱に色つけず、上り口一間半四枚の障子、勝手二枚障子、道幸の上葭へい也、床一間は鳥の子の白張、黒縁を打候」とあります。
『江岑夏書』に「大徳寺門前に利休屋敷取被申候、先少庵、堺より上り被申候、屋敷取候て、茶之湯少庵被致申候、青竹ふた置なと其時被致候へは、堺より、めんよの数寄者上り申候と、京衆申候て、茶を皆望申候、其已後宗易上被申候、不審庵と申額打、四畳半之座敷被致候、其時初而たゝみ石被致候、さがのてん龍寺に西方寺に在之、宗易上被申候ての事也、其四畳半五尺床也、うすすみ色のかみにて皆はりつけなり」、「少庵、二条大やしき在之候、大甲水の時、京に釜座のつきぬけ、衣の棚へつきつけ被成候時、かまの座のつきぬけ、少庵屋敷の中をつきぬき申候、其替やしきに、唯今のやしき替地に取申候、徳善院の時、其二条に而やしきに二畳半の小座敷被致、床は四尺にいたし、ふるいゝ宗易を座敷之開に呼被申候、易きけんよく御座候、扨、門前へ易御帰候て、そのまゝ大工呼て、床を四尺三寸しめ被申候事」とあります。
『茶窓陂b』に「紹鴎が四畳半は一間床なり、道安四尺三寸にちゞめし床を休師見て、是は一段よしとて、其後四畳半を建し時に、四尺三寸の床になせしより、今も多くはこれにしたがえりとなん」とあります。
『茶道筌蹄』に「四畳半畳名所 紹鴎好四畳半は二枚障子にて左右にマイラあり、張壁なりしを利休塗壁にてぬり残し窓をあけ、くヽり口を付る、道幸の戸は此壁を通り勝手口の太鼓張は外を廻す」「窓 紹鴎このみの四畳半の張壁を塗壁にてぬり残しのまどを明る事、居士より始るなり、定家卿の歌に 大かべの窓ぬり残す庵までも すさめす照す夜の月」とあります。
『利休の茶』「天正十六年九月四日朝於聚楽利休居士台子の茶湯」に「一、座敷ひかしむきの四帖半、四尺の床、たうこ棚有、北方に横窓、東のくゝりの上に窓二つ大小有」とあります。
『細川三斎茶書』に「北野大茶湯之時利休数寄や始て作寸法、此已後より此寸法にて数寄や圍出来申事也(寸法如左四畳半也)」とあります。
『茶譜』に「宗旦老後に利休不審庵の座敷の図を以て造るを則ち不審庵と額を打」とあります。

     
外観  天井    出入口
     
    台目構  水屋

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