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韃靼表具

真(表補) 行(幢補) 草(輪補) 大和表具 変り表具 文人表具 名所

韃靼表具
韃靼表具(だったんひょうぐ)とは、見切表具(みきりひょうぐ)から風帯(ふうたい)を取り去った形の表具のことをいいます。
韃靼は、達靼、達怛、達旦、韃韃、達達、達打、塔塔爾、塔塔兒などと書かれ、唐の開元二十年(732)の「闕特勤碑」に始めて見え、「旧唐書」僖宗紀、「旧五代史」唐武皇紀、「新唐書」新唐書、「新五代史」韃靼伝などに記事があり、はじめ蒙古系の一部族の名称として現れ、のち蒙古民族の総称となり、明代には元の滅亡後北方に逃れた遺民のことをこう呼んでいます。
韃靼は、江戸時代の日本においては、一般には満蒙古族や清を建国した満州(女真)族も含めて中国の北方の人々や国を指してこう呼び、清のことを呼ぶこともあります。

『闕特勤碑』に突厥文字で「Otuz-Tatar(オトゥズ・タタル:三十姓韃靼)」とあり、この碑については『旧唐書』突厥伝に「二十年、闕特勒死。詔金吾將軍張去逸、都官郎中呂向、齎璽書入蕃弔祭。並為立碑。上自為碑文。仍立祠廟、刻石為像、四壁畫其戰陣之状。」(開元二十年、闕特勤死す。金吾将軍張去逸、都官郎中呂向に詔し て、璽書を齎し蕃に入りて弔察せしむ。拜せて為に碑を立てる。上、自ら碑文を為る。なお、祠廟を立て、石を刻みて像を為り、 四壁にその戦陣の状を画く。)とあります。
『旧唐書』僖宗紀に「獨與國昌及諸兄弟北入達靼部」とあります。
『新五代史』に「達靼、靺鞨之遺種、本在奚、契丹之東北、後為契丹所攻、而部族分散、或屬契丹、或屬渤海、別部散居陰山者、自號達靼。當唐末、以名見中國。」(韃靼は靺鞨の遺種、もと奚・契丹の東北に在り。後契丹の攻むる所と為りて、部族分散し、或いは契丹に属し、或いは渤海に属し、別部の陰山に散居せし者は、自ら韃靼と号す。)とあります。
『蒙韃備録』に「韃靼始起、地處契丹之西北、族出於沙陀別種,故於歴代無聞焉。其種有三、曰K、曰白、曰生。所謂白韃靼者、顏貌稍細、為人恭謹而孝、遇父母之喪、則嫠其面而哭。嘗與之聯轡、毎見貌不醜惡、其腮有刀痕者、問曰、白韃靼否、曰、然。凡掠中國子女、教成卻歸之、與人交言有情。今彼部族之後、其國乃韃主成吉思之公主必姫權管國事。近者入聘於我宋副使速不罕者、乃白韃靼也。毎聯轡間、速不罕未嘗不以好語相陪奉慰勞、且曰、辛苦無管待、千萬勿怪。所謂生韃靼者、甚貧且拙、且無能為、但知乘馬隨衆而已。今成吉思皇帝及將相大臣、皆K韃靼也。」とあります。
『明史』列傳第二百十五外國八韃靼に「韃靼、即蒙古、故元後也。」(韃靼、即ち蒙古、故に元の後なり。)、「而敵自脱古思帖木兒後、部帥紛拏、五傳至坤帖木兒、咸被弑、不復知帝號。有鬼力赤者簒立、稱可汗、去國號、遂稱韃靼云。」(敵は脱古思帖木兒(トクズ・テルム)よりの後、部帥紛拏して、五伝の坤帖木兒(クン・テムル)に至り、咸な弑を被むりて、復た帝号を知らず。鬼力赤(グイリチ)なる者あり、簒立して、可汗を称し、国号を去りて、遂に韃靼と称すと云う。)とあります。
『華夷変態』に「本朝の正保元年当福王弘光年 大明兵乱伝聞自長崎注進(中略)区々に取沙汰仕候得ども韃旦人北京を取申候事事実にて御座候、又北京を李賊攻落申候刻、諸官人等大形李賊に降参いたし申候由々候」「閏五月迄に韃旦人打取候国々は大明三分之而候と申候。右者此頃来朝之唐人共物語仕候以上。正保二年酉六月二日」「呉三桂韃靼の兵を借て李自成を撃平け北京を復す、三桂は李自成を逐ひ陜西へ赴く、韃靼直に北京を奪ひとる、順清と改元し大清国と号す、五月韃靼南京を攻取て弘光帝を擒す」とあります。
享保五年(1720)刊『四十二国人物図説』に「大清は即今の唐土の号なり、天子の本国韃靼なる故に大明の風俗を改む」「韃靼は本名韃而靼といふ、今は而の字を略す、其国東西黒白の二種有て属類甚多く、国界四十八道に相分れて大国也、古の胡国といひ或は蒙古と云も皆此国の別号なり、南界は唐土に交接し北方は氷海に近く大寒地にて四季昼夜の長短大に他方と同しからさるの所々多し、最冨饒の国也といふ、国人弓馬を好み勇強の風俗なり、北極地を出る事四十三度より六十四度に至て南北に短く東西に長し」とあります。

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