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江戸大西家
大西定林 大西五兵衛
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江戸大西家(えどおおにしけ)は、大西家二代浄清の子の定林が江戸に住して興した釜師の家です。
江戸大西家は、大西浄清が古田織部に随い次男の定林と共に江戸に下り、以後京都と江戸を往復し、明暦二年(1656)幕府御用釜師となったといい、浄清の次男の定林が、江戸に定住し江戸大西家の初代となり、幕府御用釜師となります。
江戸大西家は、三代五郎左衛門まで幕府御用釜師を勤めますが、四代五郎左衛門の代から休職し、御用の節は御釜師名越弥五郎方の下職として御用を勤めたといいます。
江戸末期に、御釜師として大西宇之助、大西喜三郎の名が見えますが、江戸大西家との関係は詳らかではありません。
江戸大西家歴代
初代 定林、五郎左衛門、享保十二年(1727)歿
二代 五兵衛、五郎左衛門、延享元年(1744)歿
三代 五兵衛、五郎左衛門、安永七年(1778)歿
四代 五郎左衛門、天明六年(1786)歿
五代 五兵衛、天明二年(1782)歿
六代 幸次郎、安永七年(1778)歿
七代 忠次郎、五郎左衛門、寛政十一年(1799)歿
八代 定之助、寛政七年(1795)歿
九代 重五郎、五郎左衛門
十代 五郎左衛門
大西宇之助
大西喜三郎
『茶道筌蹄』に「浄清 浄林の弟也、兄弟共に織部公に随て関東へ行く、浄林は江戸に足を止め御釜師となる、浄清は京へ帰り住す」とあります。
『茶家酔古襍』に「浄清 五郎左衛門、名村長、上手也、寛永年中弥五良家昌にしたがひて江戸に来て明暦二年家昌願に依て被召出、天明(ママ)二年京都に於て死す、以後代々御用相勤江戸住居」「浄久 上手、貞享二年死す、光国卿御法華堂釜一つ造る、遠州公御好小松葉釜、色紙釜、石州公御好俵釜大小、夕顔釜、大姥口、切竹鐶付釜」「定林 上手、享保十二年死す、宗徧好箆被風呂釜、四方釜、カラケ、雲龍」「浄林 上手、延享元年死す」「五郎左ヱ門 天明六年死す」「五兵ヱ 天明二年死す」「幸次郎 安永七年死す」「忠次郎 寛政十一年死す」「定之助 寛政七年死す」「重五郎」「五郎左ヱ門」とあります。
『武鑑』の元禄十七年宝永元年(1704)に「御釜師 京はし五丁目 釜屋定甫。鑓屋丁 釜屋五郎左衛門」、享保十六年(1731)に「御釜師 釜屋定甫 釜屋五郎左衛門」、延享三年(1746)に「御釜師 釜や定甫 釜や五郎左衛門」、天明元年(1781)に「御釜師 深川万年丁一丁め 大西宇之助」、文化六年(1809)に「御釜師 深川万年丁一丁メ 大西宇之助。山城藤兵衛。」、天保10年(1839)武鑑に「御釜師 深川万年丁一丁メ 大西宇之助」、万延元年(1860)武鑑に「御釜師 通二丁目尾上丁 大西喜三郎」とあります。
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