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辻与次郎

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伝辻与次郎作 丸釜 MIHO MUSEUM蔵

辻与次郎(つじ よじろう)は、京都三条釜座(かまんざ)に住した、安土桃山時代の釜師です。
辻与次郎は、近江国栗多郡辻村の出で、生没年不詳、名は実久、法名を一旦、通称は天正頃は与二郎、慶長頃には与次郎と記しています。
辻与次郎は、名越昌孝の『鋳家系』によれば名越善正の次男で慶長八年(1603)四十八歳で没したとあり、西村道冶の『釜師之由緒』は西村道仁の弟子としています。
辻与次郎は、秀吉や利休の釜師として、豊臣秀吉より「天下一」の称号を許されます。
辻与次郎は、在銘や共箱の釜は見出されていませんが、慶長五年(1600)京都豊国神社雲龍燈籠や慶長十五年(1610)出羽国西善寺鋳銅鐘などに鋳出銘があります。
辻与次郎は、千利休の釜師として阿弥陀堂釜、雲龍釜、四方釜などを鋳造し、釜の羽を意図的に打落して古作の釜のような古びた味わいをだす羽落(はおち)や、鋳上がった釜を再び火中に入れて高温で赤くなるまで焼いて釜肌をしめる焼抜(やきぬき)を考案したとされます。

本能小学校鉄水鉢に「天正五丑二月 釜大工與二郎」、江州野州群兵主神社鰐口に「天正八年庚寅九月吉日 大工洛陽三條與二郎」、京都豊国神社竹に虎の燈籠に「天正十九う十一月住吉郷内坂村にてい申す與二郎」、京都豊国神社雲龍燈籠に「奉寄進鉄灯籠 慶長五庚子年八月十八日 天下一釜大工與次郎實久鋳之」、出羽秋田西善寺鐘に「山城愛宕郡三条釜座鋳物師天下一辻與次郎藤原實久 干時慶長拾伍歳庚午六月拾八日」とあります。
『茶湯古事談』に「利休時代に京に住し与次郎も釜の名人なり、子孫今ハ相続せす、是を京釜といふ、利休気に入て好ミ鋳させしとなん」とあります。
『釜師由来』に「一京作 京師天下一 辻与二郎 法名一旦と云、太閤秀吉公御釜師、利休時代、藤左衛門、彌四郎と此三人利休の釜初て鋳る。阿弥陀堂、雲龍、四方釜 与二郎作。尻張釜 彌四郎作。丸釜 藤左衛門作。其後は右三人種々形の釜を鋳る。一旦与二郎三人の内随一の上手也。利休時代の釜出来能を与二郎と極め、藤左衛門、彌四郎両作共に今代は与二郎と極め、其外の釜は利休時代と極る」とあります。
『釜師由緒』に「京作は利休時代、京師天下一辻与次郎と号、藤左衛門、弥四郎、利休釜形付始て鋳、道仁が弟、阿弥陀堂、雲龍、四方釜は与次郎作、尻張釜は弥四郎、丸釜は藤左衛門、其後三人して種々形釜を鋳る、一旦与次郎は太閤秀吉公の釜師三人之随一也 上手也、利休時代釜出来能を与次郎と極む、藤左衛門、弥四郎作共に与次郎と極む、其外之作は利休時代と極む」とあります。
『名物釜所持名寄』に「與次郎作 一小雲龍釜 鐶付鬼面 東御門跡千道安所持。一同 同 松笠 大文字屋宗碩。一同 井筒屋久貞。一同 古織部公ヨリ 那波九郎左衛門 中村大和へ来ル。一大雲龍釜 肥後油屋所持 三井宗竺。一四方釜 九文字屋吉右衛門 瓦本吉右衛門。一尻張釜 利休ヨリ三代目 播州佐々木平兵衛 宗左迄所持(一旦作)。一姥口霰釜 笹屋宗貞。一霰百會釜 千宗室 但シ利休百會に霰釜と有は此釜也 松平讃岐守。一野溝釜 鐶付玉章 長谷川頓彌 地紋枯木猿 御物蘆屋写(一旦作)」とあります。
『茶家酔古襍』に「実久 与四郎、一旦と号す、善正の二男、名人、慶長八年死す、天正十四年京都大仏殿丈六の仏像を鋳る又豊国神前の燈籠を寄進す、宗易好の丸釜、阿弥陀堂、尻張、雲龍、万代屋、針屋、釜及ひ国師釜、百会霰、龍宝山、少庵好巴釜」とあります。
『茶道筌蹄』に「與二郎 利休のカマ師、辻與二郎實久と云ふ、弟子に彌四郎、藤左ヱ門と云へるあり、上作ゆへカマ師にて此両人の作を與二郎と極む、法名一旦」とあります。
『釜師系譜』に「天下一辻與次郎 名は實久、近江国栗多郡辻村の産、法名一旦、豊公時代、利休の好により阿弥陀堂、雲龍、四方等の釜を作る、慶長八年三月歿、四十七八才、名人」とあります。
『西京釜師系図』に「辻与次郎、兄弟三人江州辻村産、弥四郎、藤左衛門」とあるといいます。

     
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