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織部水指

捻貫 一重口 渋紙 椿手 黄瀬戸 志野 織部

織部菊文耳付水指

織部(おりべ)は、慶長(1596〜1615)から元和(1615〜1624)、寛永(1624〜1645)の頃まで美濃で焼かれた斬新奇抜な形や文様の陶器のことをいいます。
織部は、慶長年間に天下一の茶の湯宗匠とされた古田織部正重然(ふるたおりべのかみしげなり 1544〜1615)の名から呼ばれ、織部の好みで焼かれたとされます。
織部は、加藤景延が唐津の連房式登窯を学び、慶長十年(1605)頃に美濃の久尻村(現 土岐市)元屋敷に築窯してから焼造されたものが圧倒的に多く、寛永時代には弥七田窯、久尻勝負窯、妻木窯、田尻窯、下切窯等の窯で盛んに焼かれたといいます。
織部焼の名は、文献としては寛文一二年(1672)刊『茶器弁玉集』が初出で、箱書では延宝元年(1673)に歿した片桐石州が「おりへ」と箱書付した香合、「織部焼 手鉢 貞享伍年(1688)戊辰九月」の箱書付のある手鉢などがあり、会記では『槐記』享保九年(1724)十月十八日条が初出となっており、織部の没後久しくしてから織部好みという伝えによって、織部と称されるようになったと思われます。
織部には、「織部黒」(おりべくろ)、「黒織部」(くろおりべ)、「青織部」(あおおりべ)、「総織部」(そうおりべ)、「絵織部」(えおりべ)、「赤織部」(あかおりべ)、「鳴海織部」(なるみおりべ)、「志野織部」(しのおりべ)、「織部志野」(おりべしの)、「白釉手織部」(しろぐすりでおりべ)、「織部白」(おりべしろ)、「白織部」(しろおりべ)、「織部染付」(おりべそめつけ)、「藍織部」(あいおりべ)、「弥七田織部」(やしちだおりべ)、「唐津織部」(からつおりべ)、「伊賀織部」(いがおりべ)、「伊奈織部」(いなおりべ)、「赤津織部」(あかずおりべ)などの名が見えますが、茶人による伝統的な呼称と、昭和初年以降の美濃窯の発掘による器物の分類にともなう研究者による名称の提唱が混在して複雑なものになっています。
● 織部黒(おりべくろ)は、黒釉の無文のものをいいます。鉄釉を掛け焼成中に窯から鉄鉤で引出し急冷することで鉄釉を漆黒に発色させる引出黒(ひきだしぐろ)による「瀬戸黒」を成形の際に変形や箆削りなど強い作意を加えたもので、ほとんどが歪みの大きい沓形(くつがた)の茶碗です。
● 黒織部(くろおりべ)は、織部黒に絵文様が加えられたものをいいます。主に茶碗に多く、鉄釉を一部かけはずして白く抜き、そこに鉄絵具で文様を描き、その上から長石釉を掛けたものです。昭和二八年(1953)加藤土師萌(かとう はじめ)によって織部黒と黒織部についてこのような使い分けが行われ現在に至っています。黒織部の名は明治九年(1876)刊『観古図説』が初出といいます。
● 青織都(あおおりべ)は、今日一般に織部焼といわれるもので、緑釉を施したものをいいます。白い胎土に鉄絵具で文様を描き、その上から長石釉を掛け、さらに銅緑釉をなだれ釉とし、あるいは片身替りに施したものです。青織部の語は明治十一年(1878)刊『工芸志料』が初出といいます。
● 総織部(そうおりべ)は、青織部の器全体に緑釉をかけたものをいいます。文様は釉下に線刻や印花や貼花などで施され、なかには釉を白くかけはずして、そこに長石釉を掛け文様をあらわしたものもあります。総織部は、昭和初年以降、青織部より緑釉を総掛けしたものを分類したもののようで、総織部を青織部、青織部を単に織部と称する向きもあります。
● 絵織部(えおりベ)は、緑袖と鉄絵を組み合わせたもの、あるいは絵付けのあるものの総称として用いられていましたが、昭和二八年(1953)加藤土師萌(かとう はじめ、1900〜1968)によって、白土に鉄絵具で絵や文様を描き、その上から長石釉を掛けたものを呼ぶことが提唱され、さらに現在では志野織部に分類され、志野織部に鉄絵をつけたもの、なかでも長石釉に灰を多く混ぜた透明感の強いもので絵付けが鮮明になったものを指すようです。
● 志野織部(しのおりべ)は、大窯で焼かれた志野(古志野)に対して、登窯で焼かれた志野をいいます。元々は志野も元禄頃までは織部と呼ばれていましたが、のち織部焼と区別されるようになり、さらに昭和初年以降の美濃窯の発掘ブームにより技術系譜によって織部を分けていくことが行われ、志野織部はそうしたなかで、志野の系譜を直接引く織部焼をいう語として用いられます。白釉手織部(しろぐすりでおりべ)、織部白(おりべしろ)などの名が昭和十年代に用いられたこともあり、また白織部(しろおりべ)、織部染付(おりべそめつけ)、藍織部(あいおりべ)などの名が使われたりもしますが、いずれも下絵付されたものの分類であるとして、現在では絵織部も含め志野織部とすることが多いようです。言葉自体は『槐記』享保十四年(1729)、安政二年(1855)刊『陶器考附録』などに見えますが、現在いうところの志野織部とは異なります。また織部志野(おりべしの)の名も見えますが、織部正から伝来したという志野焼を指すようです。登窯で焼かれた志野は、熱効率がよいところから、素地や釉が薄く、釉の下の鉄絵が鮮明になり、カリッとした堅い感じの焼き上がりで、緋色もほとんど見られなくなり、古志野特有の厚く掛けられた長石釉の柔らかい質感と雅味がありません。
● 鳴海織部(なるみおりべ)は、白土と赤土と接ぎ合わせて成形し、白土の上に緑釉を掛け緑の発色を際立たせ、赤土の上には白泥や鉄絵具の線描きで文様を描いて長石土灰釉をかけたものをいいます。また寛永の頃、城意庵が鳴海で焼いたとされるものも鳴海織部と呼ばれます。
● 赤織都(あかおりべ)は、赤土を素地として成形し、鉄絵具で文様を描いたものです。さらに白泥で文様を加えたものもあります。なかには緑釉を少し流しかけたものもあります。
● 弥七田織部(やしちだおりべ)は、元和(1615〜1624)末から寛永(1624〜1645)の頃までの織部焼晩期に焼かれていたのではないかとされる、小堀遠州(1579〜1647)の綺麗さびへの移行を感じさせる瀟洒な作風のもので、大菅の弥七田窯で焼かれたところからこの名があります。その作風は、精巧で薄作りの黄白色の素地に、鉄絵具と赤楽(黄土)で点や線を効果的に用いた繊細な文様を描き、緑釉を所々に細く紐状にたらしかけ、薄い長石釉を掛けたものです。
● 唐津織部(からつおりべ)は、織部好みの唐津焼、また美濃で焼かれた唐津風の焼物をいいます。元禄七年(1694)『和漢諸道具見知抄』に「但し瀬戸織部、唐津織部とて二通有」とあり、古田織部が唐津で焼かせたものとされていましたが、昭和初年以降の美濃窯の発掘によって元屋敷や高根などで唐津と似かよったものが焼かれていたことが明らかになり、加藤景延によって唐津から導入された登窯と一緒に美濃に入って来たとされ、昭和二八年(1953)加藤土師萌(かとう はじめ)によって唐津風の織部焼という意味から唐津織部と呼ばれましたが、現在では昭和十六年(1941)初出の美濃唐津(みのからつ)の名で呼ばれることが多いようです。また、織部唐津(おりべからつ)の名もあり、織部好みの意匠と文様で焼かれた唐津焼を指します。
● 伊賀織部(いがおりべ)は、伊賀焼に倣って造られたもので、器種も伊賀で主につくられていた花入・水指にほぼ限られています。美濃と伊賀とでは陶土や施釉の有無、焼成方法などが大きく異なるため、伊賀を意識して長石の粒を混ぜた粗い土を用いていますが、伊賀のようには堅く焼きしまらず、ざらっとしており、伊賀よりも明るい雰囲気です。また登窯では自然釉の掛りが少ないため、器表の一部に白濁色の長石釉をかけたり、口縁部から胴部に鉄釉を流し掛け、伊賀の見所でもあるビードロ釉の景色に代えています。昭和初年以降の美濃窯の発掘ブーム以降にその存在が認識されたもので、現在では美濃伊賀(みのいが)の名で呼ばれることが多いようです。
● 伊奈織部(いなおりべ)は、伊奈備前守忠次(1550〜1610)が自ら茶碗や香合の類を焼いたものといいます。多くは赤織部風のもので茶碗・香合のほかは型物が多いようです。慶長年中に瀬戸窯で焼かせたものともいい、『当代記』に「(慶長十三年七月)廿日、此比より尾張国為検地、伊奈備前守参着、則村里被当竿」とあるこの頃をいったものかとも思われますが詳細不詳です。
● 赤津織部(あかづおりべ)は、幕末の頃尾張国赤津に於いて陶工加藤春岱(かとうしゅんたい:1802〜1877)が美濃ふうの織部を模して名が上がり、世に赤津織部と称されるに至ったものです。

『宗湛日記』慶長四年(1599)二月二十八日古田織部会に「ウス茶ノ時ハ セト茶碗ヒツミ候也、ヘウケモノ也」とあります。
『草人木』寛永三年(1626)に「古織公の厳を見、手前の時の置合を見侍に、(中略)、茶碗は年々に瀬戸よりのほりたる今焼のひつミたる也、別の茶碗も出候へ共、多分其年の今焼也」とあります。
『別所吉兵衛一子相伝書』文禄四年(1595)奥書(後世の誤記で正しくは承応四年(1655)という)に「一 此頃古織の仰にて城意庵蒙て尾州鳴海にて焼、市場手当時の茶入也、後世に至り用べきもの也、又此窯にて利休好まれ候茶入焼、則利休焼と云ふ」とあります。
『茶器弁玉集』寛文一二年(1672)に「鳴海手 一、土薄赤色の細なる物也。一、絲切吉し。一、口造捻返清き物也。一、下薬薄赤み色ある梨目薬也。一、上薬には濃黄流必有物也。一、右此手の茶入は古田織部重勝物数寄に於尾州鳴海里窯を立物数六十六焼せ国々へ弘玉ふと也、其故世間に類希也、即所の名を付なるみと是を云と也」「織部焼 土薬右(利休焼)同前也、體格(なりふり)は耳付の茶入に様々の異風有、古田織部物数寄の焼物也、又鳴海織部と云物有、土薄浅黄にて薄手に造り、見事なる茶入一通有、代高し、稀也」とあります。
『和漢諸道具見知抄』元禄七年(1694)に「一、織部燒 △茶入 △沓茶碗とてせいひきく、手あつにゑくぼ入、土色白く、黒薬、薄柿、濃柿、白薬に、くろき染付の絵有、地薬白きはくはんゆう有、形は色々かはり有、△火入灰吹 △花生 △水続 △水さし △水こぼし △鉢皿ちょく △香合 △かはらけ油蓋 △根付をじめ等色々の道具物好にて焼たる物なり、但し瀬戸織部、唐津織部とて二通有、又後織部とて近代に出る物あり」とあります。
『槐記』享保九年(1724)十月十八日に「猪口 上は、丸黄色織部、下は、角白織部、柚味噌」「御湯盆 塗湯次、織部水次、瀬戸の四角香煎」「御菓子 だいはの重箱、麥藁もろこし、飴粽、盆唐物、織部の砂糖入」、同十年五月十八日「御菓子 山形羊羹 織部の手付の鉢に入れ、左馬頭之を捧ぐ」、同十一年正月二十三日「香物 奈良漬、茄子、瓜、鉢四角にて、角より角へ手付、織部」、四月十九日「水指 短き織部、備前の蓋」、同十二年四月三日「香物 鉢織部の四角、角より角へ手付」、同十三年十一月二十日「香煎入 織部瓢箪、大ぶり」、同十四年三月四日「茶入 志野、織部 袋 焼切れ時代、金紋蘆の模様、新く仕立られたりと見ゆ」、同十六年四月二十九日「茶入 織部、徒簿共蓋、茶入は柿薬、蓋は白に菊の模様あり」、同十八年十月二十二日「茶入 織部、袋 金入、利休」とあります。
『茶碗茶入目利書』に「織部、四通有、志の、鳴海、瀬戸、絵之手、惣体厚く出来いふつ形多く、絵有も有、絵は土必見、志の土見る、黒土見、薬は白薬薄柿色有」とあります。
『茶器名物図彙』文政十年(1827)序に「鳴海焼 是も勝重(古田織部の諱なり)物数寄にて尾州鳴海といふ所に窯を建て、茶入数六十六焼かせらるヽと云ふ、則勝重の領所といふ此所の名を呼びて鳴海手といふ、土薄浅黄鼠色にて、下薬薄柿、上薬濃き黄薬にして梨目薬あり」とあります。
『陶器考』嘉永七年(1854)序に「一、織部呂宋と同し、織部焼は呂宋沓を形にして織部の好なり、以前のものは呂宋の製なり、呂宋は土堅く薬つやあり、織部は土薬とも和かくつやうすし。織部形のものある所々 呂宋、安南、朝鮮、丹波、唐津、瀬戸、シトロ、信楽、中津」「一、古志野と織部沓は呂宋の沓鉢なり、しのは土和く薬つやうすし、呂宋は薬つやよく、土白くかたし、音かん々たり」「(安南)一、この窰に出来るもの茶薬黄土にしろ薬と黒薬にて中に異やうの画を書るもの世に赤織部と云、織部にあらす安南啜香なり。俗にすヽり呉器といふ」とあります。
『陶器考附録』安政二年(1855)序に「一、瀬戸窰志野焼 志野宗信物好にて呂宋白薬の沓鉢を茶碗とす、是より志野茶ワンの名出る、後、今井宗久へ伝はりし由、名物記に唐物とあり、此茶碗の出来振ぶりを尾州にて写したるを志野焼と云、呂宋安南ものに志のによく似たる物あり、土薬をよくよく見分へし、志野とも織部とも画からつとも見分かたき品又志野織部と云来る中にあり」「一、同窰織部焼 古田織部正呂宋の黒薬沓鉢を形にして尾州にて写させ画は少児にかヽせしと云、故に画やう何とも見分かたし、唐津にも織部好の焼物あり、又呂宋織部安南織部と云へき品あり、しかれども呂宋出来は偽物安南出来は玄寳やきなとヽ云あやまり来る」「一、瀬戸黒織部黒と云来る二品を尾州にては引出し黒といふ、焼かけんをみて取出す故なり、やきすきる時は赤き色に変する故なり」とあります。
『瀬戸大竃焼物並唐津窯取立之来由書』に「二代目四郎右衛門当地に来て竈を取立焼始、経数年後ち受領而筑後と申なり。或時唐津より森善左衛門と云牢人、当寺先住一閑和尚に内縁有て被参。折節筑後之被窯焼見物して惜哉大分火が損と云。時に筑後是を聞て扨何と唐津の様躰焼様如何と問ふ。彼の仁答へて云、用躰有ら増し語り、兎に角是非是々唐津へ行き竈の用躰を能く見分して、焼様を委細相傳被致よと云。依て是に彼の人帰国之節同道して僕一人連れ、彼の地へ行、竈の用躰焼様を念比呂に相傳して帰り、先づ屋外之内に竈場を定め、四方に高壁を掛、其内に竈を打ち、是は餘竈之者に為秘密見せんがなり。」とあります。
『観古図説』明治九年(1876)刊に「古田織部好なる奇なる画付の物を鳴海とは云はすして只織部と云、此画風の物を瀬戸及ひ京作なる物も今は矢張織部と云ふ、又元の鳴海薬にて形ち織部好みの風なるを鳴海織部と云」「○第十図の茶碗は鳴海焼にして世に黒織部と云、旋盤を以て作り箆にてすきとりたる処も有り、又指にて押入れたる処あり、土は薄土器色に薄鼠を帯ひ質細して固からす、目方重く懸目八十匁有り、下薬薄緑色に薄鼠色を帯て薄く懸る透明せり、上薬は黒色にて厚薄に懸る、下薬透て濃黒色には見えす、光沢あり、胴に三ケ処上薬丸く懸らぬ処あり、高台には懸らす、時代は二百七八十年位に見ゆ、甚雅致あり、此形を塩笥と云」とあります。
『工芸志料』明治十一年(1878)に「織部は天正年間古田織部正重然の称より出づ、重然茶を好み乃瀬戸村の工人に命して一種の茶器を造らしむ、世人是を呼て単に織部と云ふ、その質大抵志野に似たりといへども而れども質柔にして厚し、描する所の絵多く草画にして雅致あり、黒褐色の釉及ひ緑釉を施せり、又一種青織部と称する者あり、全体青緑釉を施して、菊花の章一个を白く存したるものなり、其の地の工人陶法を伝へて今に至る、而ち猶織部といふ」とあります。
『茶器名物図彙』に「鳴海焼 是も勝重(古田織部の諱なり)物数寄にて尾州鳴海といふ所に窯を建て、茶入数六十六焼かせらるヽと云ふ、則勝重の領所といふ此所の名を呼びて鳴海手といふ、土薄浅黄鼠色にて、下薬薄柿、上薬濃き黄薬にして梨目薬あり」とあります。
『をはりの花』大正九年(1920)刊に「鳴海織部 鳴海織部と称するは慶長の頃古田織部正瀬戸の工人を尾張国鳴海の里(愛知郡のうち)に招き陶器を造らしめたる其地名を冐し鳴海織部と云ふ、其陶質は前種織部と同一なれ共器皆薄作にして上好に且雅致に富む」とあります。
『陶磁大辞典』昭和九年(1934)刊に「青織部 今日いふところの織部焼は主にこの青織部を指称する。向附、鉢、徳利の類が多い。銅緑釉を全体に施した所謂総織部には釉下に線刻文または印花文のあるものが多い。」とあります。

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